しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <注ぎのささげ物>

2022-05-07 | 2テモテ

「私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(Ⅱテモテ4:6,7新改訳)

パウロが死刑判決を受けるのは、もはや時間の問題になっていた。そのことを意識しながら、彼は「走るべき道のりを走り終えたので、思い残すことはまったくない」と証しする。▼私たち信仰者のうち、はたして何人の者がこれほどの達成感を抱いて世を去ることができるだろうか。「まだやり残したことがある」、「私は御国に入る備えができていない」と慌てふためいて最後を迎えるキリスト者たちのことを聞いている。▼それにしてもパウロを取り巻く状況はきびしい。味方になってくれる人たちおらず(16)、弟子の中には離れ去る者も出た(10)。その上、入れられている獄屋の環境は最悪で、これから冬が来ると言うのに、すでに寒さはきびしく身にこたえている。だからテモテに、カルポの所に置いてある外套を持って来てほしい、と手紙に書き添えたのであった。▼にもかかわらず、老聖徒はもう一度、輝く栄光の天に目を向ける。そこにはパウロを救い、大いなる力を与えて走り抜かせたキリストが無数の聖徒たちに囲まれ、彼が天に上って来るのを待っておられる。すでに大合唱、大賛美が耳に聞こえて来るではないか。テモテよ、あなたも続きなさい。どんな場合にも慎んで苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の努めを十分に果たしながら・・。

<やがて天にて>

①御国に住まいを備えたまえる 主イエスの恵みをほめよ、たたえよ

②浮世のさすらい、やがて終えなば 輝く常世(とこよ)の御国に移らん

③もろともいそしみ励み戦え 栄えの主イエスに、ま見ゆる日まで

④目当てに向かいて馳せ場を走り 輝く冠を御殿(みとの)にて受けん

<折返> やがて天にて喜び楽しまん 君にまみえて 勝ち歌を歌わん

{新聖歌468 詞:Eliza E.S.Hewitt,1851-1920(UN)}


朝の露 <聖書に親しんで>

2022-05-06 | 2テモテ

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。」(Ⅱテモテ3:14,15a)

ここでパウロはテモテに、あらためて聖書信仰に生きるよう強く勧める。なぜなら聖書は神の息吹によって書かれた真理の書だから、と・・。土から造られたアダムが、神にいのちの息を吹き込まれて人間となったように、キリスト者は聖書に親しみ、聖書を信じて生きるとき、神から新しいいのちを吹き込まれるのである。▼テモテは小さな時から、祖母ロイスと母ユニケによって教えられ、聖書に親しみながら育ったのであろう。そして青年になったとき献身し、パウロに同行している間、昼となく夜となく生きた聖書教育を受けたにちがいない。▼みことばに対する信仰さえあれば、いかなる困難や問題が起きても問題はない。たとえ迫害の嵐が襲って来ても、微動すらしないですむ。テモテは恩師と宣教の戦いを共にすることによって、生きた聖書信仰とあふれる実際的知識を学んだのであった。

私は60年前の学生時代、さそわれて教会の礼拝に出た。生まれて初めて出るキリスト教の礼拝、目の見えない牧師が語られる説教は何もわからなかったが、その確信に満ちた態度、神に向かう姿勢に深い感動をおぼえた。微動もしない信仰というものを初めて見せつけられた気がした。▼今ふりかえると、先生の聖書に対する信仰が私の心に迫って来た、ということだった。すなわちそこに、神が臨在しておられたのであった。聖書が信仰者により語られる時、そのままでは終わらない。なぜなら、神のいのちが息吹となって広がり、聞く者の心に伝わるからである。ちょうど音叉が振動すると、近くの音叉がひとりでに鳴りだすようなものだ。教会(エクレシア・集会)とは集う人々の人格の奥底に存在する霊魂が生きたみことばにより、互いに共鳴し合い、天に向かう礼拝となる場ではないだろうか。それは聞く人々の生き方全般に聖なる変化をもたらさずにはおかない。▼だから集会は表面的な現象や雰囲気、賜物と称する何かの現れや自己顕示で終るべきではない(あのコリント教会のように)。神のことばはそのようなものをはるかに超えて働くゆえ、その事実におそれを覚えて行く必要がある。それは大げさではなく、天地創造に匹敵する新しい創造がそこに行われることなのである。

 


朝の露 <選ばれた人たちのために>

2022-04-30 | 2テモテ

「ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます。彼らもまた、キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになるためです。」(Ⅱテモテ2:10新改訳)

数十年間にわたって半生を世界宣教にささげ、走りぬいて来たパウロも、今は獄中にあり、不自由な生活を強いられている。各地に生まれた多くの信仰者たちが気になるが、どうすることもできない。その上、弟子たちの中には離れ去る者も出、テモテのように残った弟子も弱さから十分に活動することができない。▼だがパウロは「選ばれた人たちのために」一切を耐え、手紙を書き、暗黒の牢獄で祈り続ける。やがてそれが新約聖書になり、教会が建立していくみなもとになった。彼は想像もしなかったろうが、21世紀に生きる私たちもその選ばれた人たちにふくまれているのである。▼神はなんとふしぎなご計画を進められていることか。選びの使徒を獄に閉じ込め、天の世界を霊によって見させ、雄大な黙示のうちに獄中からの手紙を書き、そこに涙の祈りを染み込ませたのであった。キリスト再臨のときまで、各時代の聖徒たちがそれを読んで生きるようにと。そこで私たちもパウロの耐え忍びを模範にしたい。たとえ先が見えない試練のトンネルを通っているようでも、そのこと自体がやがて思いがけない結果を生むかもしれないのだ。いや、きっとそうにちがいない。自分が生きている間に、あらゆることの結果が出ると考えるのほうが、むしろおかしいのではないだろうか。たとえ、現在の営みが不毛の大地に種を蒔くように見えても失望する必要はない。すべてに「神の時」があるのだから・・。▼「朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。」(伝道者11:6同)


朝の露 <神の賜物を再び>

2022-04-29 | 2テモテ

「そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」(Ⅰテモテ1:6新改訳)

エペソにいたテモテは敬愛する使徒パウロが獄中にあり、状況が次第に悪くなることを感じていた。もしかすると死刑の判決が出るかもしれない、そうなったとき、自分はどう対処したらよいのだろう。エペソから遠く離れたローマに幽閉されていたパウロは、愛弟子テモテの気持ちを痛いほど察知しており、励ましの手紙を送った。それが本書簡で、彼の絶筆となったものである。▼テモテよ、途方に暮れる必要はない。私たちを永遠の昔から選び、素晴らしい福音に招いてくださったお方は、あなたにも豊かに賜物を与えておられる。それは臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊なのだ。だから私や周囲の状況を見てばかりいないで、内にいますお方にしっかり目を止めなさい。そうすれば、信仰の火がふたたび燃え上がるであろう。キリストは死を滅ぼし、復活によっていのちと不滅を明らかにされた。臆することなく、恥じることなく、堂々と福音を証し続けなさい。

この書をおおっているのは孤独または寂寥(せきりょう)という空気である。パウロは裁判の席でも弁護者を失い、ただひとりで被告席に着かねばならなかった。彼が伝えて来た十字架の福音は帝国各地で反対者による非難の嵐に直面し、その波浪はエペソでテモテにもふりかかっていた。だから彼も孤立していたのである。▼しかし同時に、私たちはこの手紙に「澄み切った天よりの光が差し込んでいる」ことをも感じさせられる。それは勝利のファンファーレや紙吹雪の嵐ではない。漆黒の闇を貫き、はるか遠くの水平線まで届いている海岸の灯台の光になぞらえられる。その光線は透明さのゆえに、はるかかなた、22世紀の今日の教会にまで届き、キリスト者ひとりひとりの霊性を照らしている。▼使徒が味わっている孤独は、ゴルゴタで人々から捨てられ、ただひとりで木につけられたお方の姿につながっていく。そこは神が設けられた場で、ほかのどんな人も加わることはできなかった。この孤独を他のことばで表現すれば、「神こそがすべて」ということになるであろう。もし信仰者に完成というものがあれば、それは生涯の終わりにこの告白が彼の全部となる、それに尽きると思うのである。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」(ルカ23:46同)

 


朝の露 Ⅱテモテ4章 <時が良くても悪くても>

2019-11-09 | 2テモテ

赤茶菊「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2新改訳)

パウロは前章において、「終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい」(Ⅱテモテ3:1同)とテモテを諭した。なぜなら、自己愛に満ち、金銭と快楽をすべてとする人間が地球上にあふれている。その中で正義と悔い改めを遠慮なく説けば、人々は良心に責められ、苦しさのあまり、福音を伝える者に猛然と反発するにちがいない。▼パウロたちはローマ帝国の至る所でそれを体験し、死に瀕したことも数知れず、テモテもかたわらでそれを体験して来たのであった。いま世を去ろうとするとき、師が弟子に残すことばは、そのきびしい戦いがより強まることはあっても、弱まることはない、というのである。なんと厳粛な遺命であろう。それから二千年、このことばはますます重みと光を増し、私たちに迫って来る。審判者の来臨を鋭く意識しながら聖務に務めよ、と・・・。◆私たちが伝えるのは「みことば」であって、それ以外の思想や何かではない。また、みことばに自分の考えや、世の中でもてはやされている理論や主義主張を、さりげなくブレンドした「みことば」のまがいものであってはならない。しかし、なんとそれらが多く説かれていることであろう。◆生まれながらの性質は、神の前に悔い改めること、謙遜になることを極端にきらう。理由は悪魔が人の心を支配し、自由にあやつっているからで、謙遜と悔い改めはその彼を追い詰め、窒息させる行為だからだ。みことばをそのまま宣べ伝えると、それは両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、そこに巣食う高ぶりと神への反逆性をあばき出さずにはおかない。◆それでも率直に語り続けると、あのサンヒドリンの議員たちが、「はらわたが煮え返る思いでステパノに向かって歯ぎしりし」、ついには「大声で叫びながら、耳をおおい、一斉に殺到し」、雨あられと石を投げつけ、撲殺したのと同じようなことが起こる可能性がある。テモテよ、どうかそれを恐れないで、みことばを語り続けよ、あなたを正しく評価し、永遠の報償を与えるために、まもなく主が再臨されようとしているのだから。天に帰る使徒パウロの最後のことばである。