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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <見捨てられたパウロ>

2024-12-28 | 2テモテ
「私の最初の弁明の際、だれも私を支持してくれず、みな私を見捨ててしまいました。どうか、その責任を彼らが負わせられることがありませんように。」(Ⅱテモテ4:16新改訳)

最初の弁明とは、たぶんローマで開かれた第一審のことであろう。そこで彼はひじょうに不利な立場に立たされた。いろいろな人々が参考人として意見を求められたが、自分を守ろうとするあまり、パウロを積極的に弁護(べんご)しなかったと想像される。▼主もそうであった。ユダヤ人たちがピラトに手きびしく主イエスを訴えたとき、だれもイエスのそばに立つ人はなく、弟子たち、アリマタヤのヨセフやニコデモたち国会議員まで見捨てたのだった。こうして神の子は十字架につけられ、最後には最愛の天の父にまで捨てられたのである。▼私たちも御国に入りたいと願うなら、孤独を覚悟すべきである。場合によっては父母、妻子、友人知人、もっとも信頼してきた人々に裏切られるかもしれない(ルカ12:52、53)。だがそうされた者たちを待ち受けるのは、天にある栄光の冠とハレルヤの大歓声である。

朝の露 <見かけは敬虔でも>

2024-12-27 | 2テモテ
「見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。」(Ⅱテモテ3:5新改訳)

パウロは終わりの日に困難な時代が来ることをテモテに語り、そのひとつとして偽善的(ぎぜんてき)な信仰の蔓延(まんえん)をあげている。▼わが国だけをとりあげても、実に多くの信仰と宗教があり、人々をあざむいて引き寄せている。その主張は美辞麗句(びじれいく)に満ち、信じればすばらしい人生が待っていると約束するが、いったん入信すると金銭や時間をうばわれ、あやしげな教義の奴隷となって苦しむことが多い。つまり、見かけは敬虔さに満ちているが、実態は金集め、人集めにすぎない宗教がたくさんあるのだ。▼これを見破るには聖書そのものを読み味わい、指導者や信徒たちの生活、行動をよく観察することが大切であろう。主が言われたとおり、果樹をじっくりながめ、どんな実を結んでいるか調べるのである。聖書が数千年間読まれ、信じられてきた事実は、それが真理の書であることを無言のうちに立証している。なぜなら、今も世界で何億という人々が聖書を愛読し、信じ生きているのだから。▼「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:15~20同)

朝の露 <柔和な態度で>

2024-12-21 | 2テモテ
「反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。」(Ⅱテモテ2:25新改訳)

パウロの指示で任地に残ったテモテであったが、務めは決して楽でなかった。多くの反対者がおり、若い彼のいうことをすなおに聞き入れない人々もいた。だがパウロは言う。テモテよ、決して争ったり、口角泡(こうかくあわ)を飛ばして激論などしてはいけない。それは悪魔のおもうつぼにはまるだけだ。▼主に仕える教師は、どのようなときも怒らず、キリストの愛と忍耐をもって、やさしく教え諭し、真理を説き続けなければならない。「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます」と、私はかつてコリント教会に書き送ったが、それを思い出しなさい。そうしているなら、神はご自身の力をもって人々の心を変え、逆らっていた罪深さを自覚して悔い改めに導かれるであろう。▼テモテが人知れず流す涙を、パウロはわがことのように知っていた。二人は親子以上の親子として宣教に従事していたからである。「涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え 泣きながら出て行く者は 束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。」(詩篇126:5,6同)

朝の露 <祈りの中で>

2024-12-20 | 2テモテ
「私は夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こし、先祖がしてきたように、私もきよい良心をもって仕えている神に感謝しています。」(Ⅱテモテ1:3新改訳)

本書はパウロの最終書簡として新約聖書に入れられたものである。ローマで入獄し、裁判を受けたパウロは、いったん釈放され、長年の願いだったスペインまで行ったようだ。スペインは当時、地の果てと思われていた。▼ところがキリスト教をとりまく環境は次第に悪くなり、彼は再び捕らえられ、ローマで獄につながれ、裁判を受けて死刑が確定した。その判決が出る前、愛弟子(まなでし)テモテに書き送ったのがこの書だと思われる。もちろん以上は言い伝えで真相は誰にもわからず、神のみがご存じだ。▼殉教の日が日一日と迫るなか、使徒の心を占めていたのは、生涯をかけて自分に従って来てくれたテモテのことであった。エペソに残って、教会を指導している彼に一目会いたい、すなおでやさしいテモテは、たぶん涙とともに恩師(おんし)パウロのことを心配し、会いたいと願っているのだろう。それは二人の心に宿る共通の思いであった。

朝の露 <注ぎのささげ物>

2022-05-07 | 2テモテ

「私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(Ⅱテモテ4:6,7新改訳)

パウロが死刑判決を受けるのは、もはや時間の問題になっていた。そのことを意識しながら、彼は「走るべき道のりを走り終えたので、思い残すことはまったくない」と証しする。▼私たち信仰者のうち、はたして何人の者がこれほどの達成感を抱いて世を去ることができるだろうか。「まだやり残したことがある」、「私は御国に入る備えができていない」と慌てふためいて最後を迎えるキリスト者たちのことを聞いている。▼それにしてもパウロを取り巻く状況はきびしい。味方になってくれる人たちおらず(16)、弟子の中には離れ去る者も出た(10)。その上、入れられている獄屋の環境は最悪で、これから冬が来ると言うのに、すでに寒さはきびしく身にこたえている。だからテモテに、カルポの所に置いてある外套を持って来てほしい、と手紙に書き添えたのであった。▼にもかかわらず、老聖徒はもう一度、輝く栄光の天に目を向ける。そこにはパウロを救い、大いなる力を与えて走り抜かせたキリストが無数の聖徒たちに囲まれ、彼が天に上って来るのを待っておられる。すでに大合唱、大賛美が耳に聞こえて来るではないか。テモテよ、あなたも続きなさい。どんな場合にも慎んで苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の努めを十分に果たしながら・・。

<やがて天にて>

①御国に住まいを備えたまえる 主イエスの恵みをほめよ、たたえよ

②浮世のさすらい、やがて終えなば 輝く常世(とこよ)の御国に移らん

③もろともいそしみ励み戦え 栄えの主イエスに、ま見ゆる日まで

④目当てに向かいて馳せ場を走り 輝く冠を御殿(みとの)にて受けん

<折返> やがて天にて喜び楽しまん 君にまみえて 勝ち歌を歌わん

{新聖歌468 詞:Eliza E.S.Hewitt,1851-1920(UN)}