しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <主に立ち返れ>

2023-05-23 | ホセア書
「あなたがたはことばを用意し、主に立ち返れ。主に言え。『すべての不義を赦し、良きものを受け入れてください。私たちは唇(くちびる)の果実をささげます。』」(ホセア14:2新改訳)

ホセア書最後の章で、神はイスラエルに心からの悔い改めを勧(すす)める。「ことばを用意する」とか、「唇の果実をささげる」とは、主に向かって自分の罪を言い現わし、率直(そっちょく)に信仰を告白することである。しかしイスラエルは、神の招きに耳を貸すことなく、BC八世紀にアッシリアのため捕囚となり、消えてしまった。▼ところがふしぎにも、ホセア書は、イスラエルが将来かならず回復して世界各地から聖地に帰って来ることを預言しているのである。「ユダとイスラエルの人々は、一つに集められ、一人のかしらを立ててその地から上って来る」(ホセア1:11同)とあり、「まことに主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。鳥のようにエジプトから、鳩(はと)のようにアッシリアの地から、彼らは震えながらやって来る」(同11:10、11)ともある。▼イスラエルに対する主のご計画には、人知の到底(とうてい)およばない深さと高さがある。なにしろ、人ではなく、全能者がこれを定め、実行されるのだから。

朝の露 <朝もやのように>

2023-05-22 | ホセア書
「それゆえ、彼らは朝もやのように、朝早く消え去る露のようになる。打ち場から吹き散らされる籾殻(もみがら)のように、また、穴から出る煙のようになる。」(ホセア13:3新改訳)
エフライムがむなしく滅びるありさまを描写する節である。朝もや、露、吹き散らされるもみがら、煙突から出る煙、これらははかなく消えていくものの代表で、エフライムはそれと同じ運命をたどる、とホセアは言う。その原因は前節(2節)にある偶像礼拝だ。「人を献げる者たちは、子牛に口づけせよ」とは、たぶんベテルやサマリアにあった子牛像に、人々が自分の子どもたちを殺して献げるという人身御供(ひとみごくう)の儀式(ぎしき)を指す。これはカナン原住民たちの忌まわしい教えで、いつのまにかイスラエルもそれに染まってしまったのであろう。▼いつの時代でも偶像礼拝は、表面のきらびやかさとは別に不気味(ぶきみ)で恐ろしい裏の顔を持っており、それは21世紀の現代でも変わらない。そして流行病のように次々に現れては消えていく。聖書が証しする唯一の神とキリストを信じることだけが永遠につながる道である。私たちの生涯には、永遠の復活世界につながるこの一本道が確実に建設されているだろうか。

朝の露 <一人の預言者>

2023-05-18 | ホセア書
「主は一人の預言者によって、イスラエルをエジプトから連れ上り、一人の預言者によって、これを守られた。」(ホセア12:13新改訳)

この預言者とはモーセを指すが、さらに深くみればイエス・キリストのことである。パウロはこう述べている。「私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、みな、同じ霊的な食べ物を食べ、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。」(Ⅰコリント10:1~4同)▼つまりイスラエル民族はエジプトにいた頃から、すでに御子イエスの臨在のもとに置かれていた、とパウロはいう。このお方が約束の地でも彼らを守り導き、神の民として宝のように愛し守り、育てて来たというのが歴史の真相ではないか。それなのに彼らは背を向け、空しい異邦人の帝国、偶像と悪の民にすがるとはなにごとか。こうして、妻に裏切られた経験を持つホセアは自分の悲しみと重ね合わせ、イスラエルに呼びかけるのである。▼私たちもそうだ。キリストにより示された神の愛に背を向ければ、あとには何も残らない、永遠に!

朝の露 <回復の預言>

2023-05-17 | ホセア書
「鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリアの地から、彼らは震えながらやって来る。わたしは彼らを自分たちの家に住ませよう。―主のことば。」(ホセア11:11新改訳)
イスラエルは王国の歴史を重ねることによって、ますます自分を選び愛し給う神を忘れ、エジプトやアッシリアに頼るようになった。つまり、真の神に対する信仰を失えば失うほど、政治的庇護(せいじてきひご)を求めて大国にすりよって行かざるを得なくなった。まるで「寄らば大樹(たいじゅ)の陰」とのことわざどおりに‥。▼神はそのことを悲しみ、ホセアにより、イスラエルへの愛を吐露(とろ)されたのが本章である。「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。‥このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。‥わたしは人間の綱、愛の絆(きずな)で彼らを引いてきた」(1~4)と、まるで母親が子を胸に抱き、乳をふくませるようにして育てて来た描写である。このように、神のイスラエルに向かう愛は尋常(じんじょう)ではない。それに背を向ける罪の大きさは測り知れない。▼イスラエルさえこれほど愛されているとすれば、ひとり子を十字架にかけてまで「世を愛しておられる」神の愛はどれほどだろうか。そして、その愛を拒む人間の罪の大きさもまた、どれほど大きいものか。人は自覚すべきである。

朝の露 <アベンの高き所>

2023-05-16 | ホセア書
「イスラエルの罪であるアベンの高き所は滅ぼし尽くされる。茨とあざみが彼らの祭壇の上に生い茂る。彼らは山々に向かって『私たちをおおえ』と言い、丘に向かって『私たちの上に崩れ落ちよ』と言う。」(ホセア10:8新改訳)

アベンの高き所とは、たぶんベテルに設けられた神殿のことである。北イスラエル最初の王ヤロブアムは、ベテルに金の子牛をまつり、偶像礼拝の中心地として国民を惑わしたのであった(Ⅰ列王記12章)。しかしどのように盛大な社(やしろ)を作っても、偶像礼拝は長続きせず、最後はほろびしかない。それから二百年後、ホセアの預言どおりにアッシリアが襲来(しゅうらい)、イスラエルは捕囚(ほしゅう)となり、地図から消え、子牛も持ち去られた。▼ホセアは預言して言う、「あなたがたの悪があまりにもひどいので、このようなことがあなたがたになされる。夜明けには、イスラエルの王は全く滅ぼされる」(本章15節)と。後の人々がベテルを通っても、茨とあざみ、雑草が生い茂り、祭壇はみるかげもない廃墟となっていた。神の審判のきびしさをよく見つめよ、と。▼江戸時代、東北を旅した松尾芭蕉は茫漠とした草原に立ち、「夏草や 強者(つわもの)どもが 夢のあと」と詠んだ。かつて奥州藤原氏が権勢を誇った東北、その栄耀栄華も数百年後には消え失せ、夏草だけが生い茂っている。そのはかなさ、むなしさよ。だが芭蕉より二千年以上前、すでにイザヤが預言した。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:6~8同)▼芭蕉は人の世のはかなさ、繁栄の空しさに涙したが、その先を詠むことはなかった。彼の口からは、続けて、「しかし」という語が出なかった。だがイザヤは野の草を見て、その先をも見た。「しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」と。そしてペテロはさらにその先を見た。「これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです」(Ⅰペテロ1:25同)と。日本人の心に深く宿る無常観、寂寥観という夏草、野花、そこを吹き渡る風の音、それらが向かう所はイエス・キリストなのである。そこに至るとき、夏草も野の花も松風の音、木枯らしの声もイエス・キリストから発している福音のお声にほかならないと知る。そして人は救いにあずかることができる。