しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <復活の希望>

2024-06-29 | Ⅰコリント
「もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから』ということになります。」(Ⅰコリント15:32新改訳)

いみじくもパウロは、すでに二千年も前に、現代人の多くが口にする言葉をそっくりそのまま代弁(だいべん)している。というのは、私たちの周囲にいる多くの人々も、「どうせ明日は死ぬかもしれないのだから、好きにしよう」と言っているからだ。▼これは、復活という事実を信じないなら、人間は本当の意味で正しく理性ある生涯を送ることはできない、ということの証明である。優秀な文明を作り出したギリシア人も、死からの復活を信じられなかったが、私たち現代人も(日本人もふくめ)、それと変わらない。だから「あのように立派な人物が」といわれる有名人でさえ、死期が近づくと、うろたえるのである。▼私たちは、ローマの獄中で復活の希望に輝き、殉教していったパウロを、あらためて心に刻(きざ)むべきではないか。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。それから終わりが来ます。」(Ⅰコリント15:20~24同)

朝の露 <愛を追い求めよ>

2024-06-28 | Ⅰコリント
「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」(Ⅰコリント14:1新改訳)

コリントの信者たちは、御霊の賜物を熱心に求めていたが、ともすると、自分の優秀性を人にひけらかすためにしようとする傾向があった。つまり教会の益になるため、また他人を活かすためではなく、自分を誇るためにそうしていたのだ。▼パウロはそれに対し、「愛を求めなさい」と強く命じる。なぜなら、愛はイエス・キリストのご謙遜が現れたもの、最高の啓示だからである。教会は自分を見せるため競争する場ではなく、かえって自己を無にして他者のため仕える世界である。▼あの最後の晩餐(ばんさん)の夜、み父から万物を与えられた主は、何をされたであろうか。自分から弟子たちの前にひざまずき、奴隷(どれい)がするようにひとりひとりの足を洗いたもうたのであった。このおどろくべき謙遜こそ、教会が何にもまさって大切にすべき生き方だ。コリント教会の人々よ、子どものようなあり方をやめ、福音の根底(こんてい)にある神の愛を悟り、それに生きることをもって最高の喜びとしなさい。▼使徒の勧めは今日の教会と貴方への警鐘(けいしょう)でもある。


朝の露 <神の愛について>

2024-06-22 | Ⅰコリント
「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。」(Ⅰコリント13:5,6新改訳)

私たちは神の愛について、これほど豊かな内容と表現をもった文章に出会ったことはない。コリント教会の人たちが「賜物競争」をしている中、パウロは神の最大最高の賜物は愛(アガペー)であり、それは他のどんなものも、その重要性と崇高な価値において遠く及ばないことを示した。考えてみれば、イライラしない、人の悪を心に留めない、不正を喜ばずに真理を喜ぶ、といったことは、日常生活でありふれた行為のように思える。どうしてそれが偉大なのか。▼パウロは言う。信仰や奇蹟、異言、神癒などはたしかに聖霊のみわざの現れである以上、すばらしい価値をもっている。だが、愛は神のみわざというより、神のご本質そのもの。すなわち賜物ではなく、それ自体が神のいのちなのである。神は一見、ごくふつうの行いに見える愛のわざにあって、じつに御自身のいのちそのものを地上にお現わしになっておられる。奇蹟中の奇蹟が起きているのだ。▼もし私たちの教会が1年間、ひとつの非礼な行為もなく、ひとりもイライラせず、どんな行為もゆるし、互いに喜び合い、仕え合って過ごしたなら、まちがいなく、愛の奇蹟として地域に光を放つであろう。反対に癒しや不思議な奇蹟が毎日起きたとしても、争い、中傷、批判やそしりがあるなら、ただのマジック集団と変わらなくなる。世が飢え渇いて求めているのは前者であり、後者ではない。


朝の露 <多くの部分から>

2024-06-21 | Ⅰコリント
「実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。」(Ⅰコリント12:14新改訳)

人間のからだは創造の傑作品で、神の知恵に満ちている。そしてキリストのからだである教会と似ており、よくみると多くのことを教えられる。たとえば心臓はいちばん大切な臓器だが、一生涯外部に現れることはなく、しかも休みなく働き続けて生涯を終える。教会もそうで、その土台になるべき立場の人は、だれの目にもとまらない場所で黙々と働き続け、使命をまっとうしなければならない。▼反対に顔の目、耳、鼻、口などは内部に隠れることはゆるされない。その人が生きているかぎり他人に見られ、意思の伝達や心の交わりのため働き続けなければならない。心臓が目や口をうらやんだりしたらおかしいし、目や口が心臓を馬鹿にすることもゆるされない。このようにからだはそれぞれの器官が造られた目的に従って働く時、健康に生きることができ、豊かな人生を現出できるのである。▼教会の信徒ひとりひとりが、謙遜と喜びをもっておのおの務めを果たすことは何と大切であろうか。


朝の露 <新しい契約>

2024-06-08 | Ⅰコリント
「食事の後、同じように杯を取って言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』」(Ⅰコリント11:25新改訳)

教会でもたれる会食は、聖餐式以外は世の中の食事会とおなじと考えてよいのであろうか。私はそうでないと思う。理由は、教会がキリストのからだであり、常にイエス・キリストが御霊によって臨在しておられるからだ。▼世の食事会のように、酒や魚、焼き肉などを食べながら汚れた話や交わりにふける、そんなものであってはならない。主は数千人の人々に食べさせる時、パンと魚を持って天の父に感謝をささげ、続いて人々に分けられた。エマオの夕食でも、御父に感謝しつつ、二人の弟子にそれを裂いて与えられたのである。それはどんなに敬虔な食事だったことか。▼キリスト者が食事会をするとき、そこにはいつも主イエスが同席しておられることをおぼえたい。固くなる必要は少しもないが、救われた喜びと御国への希望が満ちる愛餐のとき、それこそが私たちの霊性と健康を養うのである。