しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露<神の川に水満ちて>

2024-01-06 | ピレモン書
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり、山々がゆれ、海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。」(詩篇46:1~4新改訳)
イエス・キリストのあがないが成就し、天に着座されたお方から聖霊が注がれました。いわゆるペンテコステです。▼その日以来、ちょうど高山から流れ出した川が大河となって地をうるおすように、福音は神の愛という大河となって世界をうるおし続けています。私はなぜか朝目がさめると、かつてのノアの洪水のように、世界に聖霊の水がいのちとなって流れていることを想像し、心が喜びにあふれるのです。▼清流に住むコイやフナは、かならず川上に向かって口を開け、水をからだに取り入れています。口から入った水は両脇のエラから出て行くのですが、そのとき酸素や栄養などがからだに取り込まれ、魚のいのちとなります。私はそれを見て、キリスト者もおなじだと思いました。今や世界中の信仰者たちが御聖霊の大河にあって泳いでいますが、みな方向を川上、つまり御父と御子がいます天の宝座に向かって口を開け、いのちを与えられつつ生きているのです。▼信仰の完成者、イエスから目を離してはなりません。魚が下流に向いては生きられないように、私たちも天に居ますキリストから目を離し、川下に向かうと死んでしまいます。子ども時代、小川に小さなメダカが何十匹もいっせいに上流に向かって並んでいるのを見て、かわいいなと思いました。いわゆる「メダカの学校」です。私たちも世界を流れる神の大河の中で、からだを天に向け、御父と御子を見ているなら、いのちが全身を通り、小さくても立派に生きていけるでしょう。反対に、マグロのように巨大でみごとな姿をしていても、立ち止まったり、川下に向かうなら生きることはできません。今日も神の都から流れくだる川を泳ぎ、いつも信仰の導き手イエスにからだを向け続けようではありませんか。


朝の露 <あなたの厚意に>

2022-05-21 | ピレモン書

「そうです、兄弟よ。私は主にあって、あなたの厚意にあずかりたいのです。私をキリストにあって安心させてください。」(ピレモン20新改訳)

オネシモはコロサイに住む主人ピレモンの所から逃げた「逃亡奴隷」であったが、遠くローマの都までやって来て、不思議にもパウロに出会い、回心してキリスト者になった人物である。▼だがキリスト者になった以上、悔い改めの実を結ぶ必要があった。それは、もとの主人ピレモンに、逃亡の行為をお詫びし、ゆるしてもらうことであった。もし彼がオネシモをゆるさないなら、もとの奴隷に戻らなければならない。そのためパウロはどうかオネシモをゆるし、自由人にしてほしいと手紙で懇願したのである。▼本来、使徒パウロはピレモンにどんなことでも命じ得る霊的指導者である。その彼が手をついて、どうかオネシモをゆるし、兄弟として迎えてやってくれないかと願う姿は、神の御愛から出たものでじつに感動的だ。思えば、イエス・キリストの十字架上における祈りは、これと同じであった。そのとりなしゆえに、私たちは罪の奴隷から永遠に解放されたのである。

 


朝の露 ピレモン書 <私の心そのもの>

2019-11-23 | ピレモン書

紫花「そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。」(ピレモン12)

ピレモン書は短いが、随所に神の愛を感じさせる美しい手紙である。たとえば、「彼は私の心そのものです」とは、父なる神が愛子キリストをこの世に遣わすときのことばそのものといってよい。また、「むしろ愛のゆえに懇願します」(9)との表現は、神が御子を十字架にかけ、なだめの供え物としたうえで、人間に和解を呼びかけたもうことばと受け止めることができる(Ⅱコリント5:20)。▼つまり、使徒の心が神の愛にまったく占領され、使徒の心と神の御心の見分けがつかないほどひとつになっている、そのような美しい世界を私たちはこの手紙に見るのである。となれば、逃亡奴隷オネシモの姿は、罪の奴隷として滅びに向かう私たちのそれであることが、容易に理解できよう。当時の奴隷は死ぬも生きるも完全に主人の心ひとつだったという。だからオネシモをピレモンの所に返すのは、非常な決断を要したわけである。パウロの切々たるとりなしの理由はそこにあった。◆さてもうひとつ大切なことばは「あなたの親切が強いられたものではなく、自発的なものとなるためです」(14同)である。そもそも愛は自発的でなければ、愛とは呼べない。雅歌書には、「エルサレムの娘たち。私はあなたがたにお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは」(雅歌8:4同)とのはなよめのことばがある。神の御子は、私たちに向かう燃える愛のゆえに、進んで天の位を捨て、見栄え無き人の姿となり、じつに十字架の死に至るまで御父にお従いになった。◆愛はこのような姿を持つ。なぜならそこにこそ愛のいのちがあるからだ。パウロの手紙は二千年の隔たりを超え、あなたもこの愛を内に抱き、信仰生涯を送っていますか?と問いかけている。

 


朝の露 ピレモン書 <囚人エパフラス>

2017-05-20 | ピレモン書

カンパニュラ「キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。」(ピレモン書23新改訳)

エパフラス(ギリシャ語・愛すべき)はコロサイ教会を作った人で、ローマ獄中にあったパウロを訪問、指導を受け、またよく仕えたことがうかがわれる。ここに、「パウロと共に囚人になった」と記されているが、どういう理由でそうなったのだろう。▼一つのことを想像してみたい。捕らわれの身でありながら、パウロの周囲では次々と入信者が起きていた。たとえばローマ皇帝に近い親衛隊の全員が、パウロの投獄された理由を理解するようになり(ピリピ1:13)、弟子たちは恐れずに福音を伝えていた(同14)。本書に出て来るオネシモもその実にちがいない。▼おそらくエパフラスもローマで熱心に伝道したため、官憲の怒りを買い、パウロと一緒に鎖につながれる結果になったのではなかろうか。こうして見ると、首都ローマで大勢の弟子たちが聖霊の火に燃やされ、迫害をものともせず福音を伝えていた様子が浮かび上がってくる。「私といっしょに囚人となっているアリスタルコが、あなたがたによろしくと言っています。バルナバのいとこであるマルコも同じです。」(コロサイ4:10同)


朝の露 ピレモン書 <一奴隷への愛>

2014-11-22 | ピレモン書

熟れ柿「ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。」(17新改訳) 

ひとりの逃亡奴隷がローマで回心し、パウロに仕える身となった。

もしその主人・ピレモンが事情を知ったとき、「自分のところから逃げた奴隷を、師であるパウロが、私に無断で使っている、」と考えないだろうか。だからキリスト者としてそのようなこと(他人の奴隷を無断で使用すること)をしてはいけない、そこでパウロは奴隷・オネシモの解放を願う手紙を書き、それを持たせて本人を送り帰した、以上がいきさつである。

永遠から永遠にいたる神の救いの経綸を見、心はいつも神の宝座にあったパウロだが、ひとりの奴隷の運命を心配し、心を砕いて懇願の手紙を書き送るのをいとわなかった。

私たちが感動するのは、使徒の愛の高さとともに、その思いやりの深さである。それは(パウロだけでなく、私やあなたに宿った)キリストの愛そのものから発した行為に違いないのだから。
[札幌でも柿が・・ただし温室で]