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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <サウルと息子たちの死>

2025-01-27 | Ⅰサムエル記
「翌日、ペリシテ人が、刺し殺された者たちからはぎ取ろうとしてやって来たとき、サウルと三人の息子たちがギルボア山で倒れているのを見つけた。」(Ⅰサムエル31:8新改訳)

当時、武具は貴重品であり、戦勝軍は敗北した敵軍の武具や軍服をはいで戦利品とした。ペリシテ人たちは、長年の仇敵(きゅうてき)サウル一族の死体を見て、装具を奪(うば)っただけでなく、その首を切り取り、胴体はベテ・シャンの城壁(じょうへき)に親子ともどもさらしものにした。じつに残忍(ざんにん)な仕打(しう)ちであった。▼ただ、考えてみると、このような結果になったのは、サウルが神のお心に従わず、あくまでも王位にしがみつき、神の選んだダビデの生命を狙(ねら)い続けたことにあった。もし彼が、へりくだって生前から王位をダビデに明け渡し、自分はその部下としての地位に甘んじていれば、一族の繁栄(はんえい)は長く続いたであろう。▼悪魔の本性=高ぶりを宿してしまった人間にとり、頂上に登るよりもはるかにむずかしいのは、そこから下ることである。それができるのは、弟子たちの足を喜んで洗った主イエスの心を宿す以外にはない。「イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」(ヨハネ13:3~5同)

朝の露 <奇蹟の勝利>

2025-01-23 | Ⅰサムエル記
「ダビデは、アマレクが奪い取ったものをすべて取り戻した。ダビデは、二人の妻も救い出した。」(Ⅰサムエル30:18新改訳)

ダビデが奇蹟的に略奪されたものすべてを取り返せたのは、どこまでも神により頼んだからであった。神は彼の問いに、「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる」(8)とお答えになった。これによってダビデが勇気百倍したのはいうまでもない。▼広いユダの荒野、どこへ去ったかもわからない略奪軍、ただ当てになるのは主のおことばだけ。しかし不思議な導きにより、アマレク人たちの宿営地にたどり着き、彼らを追い散らして莫大な戦利品を手にできたのであった。▼私たちも人生のさまざまな局面で、大きな困難に直面し、途方にくれることがある。ダビデ一行のように、「声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった」(4)といった状況に落ちるかもしれない。しかしそんなときは、彼がしたようにしよう。すべてを主の前に披瀝(ひれき)し、答えを待ち望むのだ。そうすれば、思いもしなかった天よりの援軍が来るのを見るだろう。▼「主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。わが盾 わが救いの角 わがやぐら。ほめたたえられる方。この主を呼び求めると 私は敵から救われる。死の綱は私を取り巻き 滅びの激流は私をおびえさせた。よみの綱は私を取り囲み 死の罠は私に立ち向かった。私は苦しみの中で主を呼び求め わが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ 御前への叫びは 御耳に届いた。」(詩篇18:1~6同)

朝の露 <最大の危機>

2025-01-22 | Ⅰサムエル記
「ペリシテ人の領主たちは、百人隊、千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュと一緒にその後に続いた。」(Ⅰサムエル29:2新改訳)

このときダビデは人生最大の危機を迎えたといってよかった。ウソをついてペリシテ人の国で過ごした一年四か月、事態(じたい)はのっぴきならぬところに来てしまったのだ。▼このままいけば、彼は戦場でペリシテ人の一翼(いちよく)をにない、イスラエルとサウル王に弓を引かねばならない。イスラエルの王として神に油注がれた彼が、である。それは絶対にしてはならないことであった。たぶんダビデは必死に祈っただろう。全能の神よ、助けてください、この非常事態をくつがえしてください、と・・。表面ではなにくわぬ顔をしながら、苦渋(くじゅう)に満ちた心で進むダビデ。どんなに重い足取りだったか。▼しかしそのとき奇蹟(きせき)が起きた。ペリシテ人の領主たちが、ダビデに帰郷(ききょう)を命じたのである。私たちを裏切(うらぎ)るといけない、と言いながら・・・。神の御介入(ごかいにゅう)以外に、これを説明できる者がいるだろうか。こうしてダビデはすんでのところで危機(きき)を脱(だっ)したのであった。「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ、御前への叫びは御耳に届いた。・・・主はいと高き所から御手を伸ばして私を捕え、大水から私を引き上げられました。主は力ある敵から私を救い出されました。」(詩篇18:6~17同)

朝の露 <サウルの末路>

2025-01-21 | Ⅰサムエル記
「主は、あなたと一緒にイスラエルをペリシテ人の手に渡される。明日、あなたもあなたの息子たちも、私と一緒になるだろう。主は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡されるのだ。」(Ⅰサムエル28:19新改訳)

ダビデを国外に追い払ったサウルは、安心してよかったはずだが、皮肉にも自分たちの最後を迎えることになった。ペリシテ人が一大決戦をしかけて来たので、戦わざるを得なくなったのである。▼不思議なことに、ダビデがいなくなったイスラエルには信仰と勇気もなくなり、あるのは恐怖心だけになった。うろたえたサウルは神のお答えを求めたが、あるのは暗黒と沈黙だけ・・・。最後の手段として霊媒(れいばい)をする女に尋ねた(7)ところ、サムエルが現れて、サウル一家の全滅を告げたのであった。▼サウルの生涯は私たちに多くを教えるが、中心は何といっても、「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(Ⅰサムエル15:22同)であろう。主のお声に聞き従うことがすべてなのである。サムエルの言葉を聞いて恐怖におびえ、気を失ったサウルの姿はあわれそのものであった。

朝の露 <仮面の生活>

2025-01-20 | Ⅰサムエル記
「アキシュはダビデを信用して、こう思っていた。『彼は自分の同胞イスラエル人に、とても憎まれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべでいるだろう。』」(Ⅰサムエル27:12新改訳)

サウルの執拗(しつよう)さは尋常一様(じんじょういちよう)でなく、ダビデの心は折れそうになっていた。このままでは、遠からずその手に落ち、滅ぼされることになろう。そう予想したダビデの心境(しんきょう)を、だれも責められないであろう。▼だがもし、ここで彼が「今後どうしたらよいですか?」と神に尋ねていれば、「あくまで、ユダ国内にとどまれ。わたしはどのような時もあなたを保護し守る。サウルの手に渡しはしない」とのお声を聞いたはずである。しかし本章に、ダビデがそうしたとは記されていない。▼その結果、国外に出るしかないとの結論に達し、彼は仲間六百人を引き連れてイスラエルの宿敵、ペリシテ人の地に逃亡した。だが、サウルの追求はなくなったものの、今度はペリシテ人に嘘をついて、「仮面の生活」をしなければならなくなった。つまり、自分たちはペリシテ人に味方してイスラエル人の敵となる道を選びました、という言い訳である。お人よしのアキシュはすっかり信用し、すばらしいユダヤ人を家来にできた、と有頂天(うちょうてん)になった。ペリシテ人の地に滞在した一年四か月は、ダビデにとって、心に大きな苦しみをおぼえる期間だったにちがいない。▼私たちが学ぶのは、どんなにきびしい状況になったとしても、主に対する信仰を決して放棄してはならない、ということである(→Ⅰサムエル22:5)。 「民よ、どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」(詩篇62:8同)