「ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。」(Ⅰサムエル31:2新改訳)
本章はサウル親子4人の戦死を記す。それにしてもイスラエル初代の王は、なぜかくも惨めな死をとげたのであろうか。▼後に編纂されたⅠ歴代誌は、その原因を以下のように解き明かしている。「このように、サウルは主の信頼を裏切った不信の罪ゆえに死んだ。彼は主のことばを守らず、霊媒に伺いを立てることまでして、主に尋ねることをしなかった。そのため、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。」(Ⅰ歴代誌10:13,14同)▼信仰者は神の御臨在を失えば、完全な敗北者にならざるをえない。ほかの何がそろっていても、またどんな人間的助けがあっても、すべては無駄である。そもそもサムエルがダビデに油を注いだ時点で、サウルは王位を退くべきであった。なぜなら神が彼を退けたからである。彼はそれに従わず、自分の王位を死守し、ダビデを殺そうとした。だから神に殺されたのである。◆人はこの世にあり、一度手にした地位、名誉、権力をなかなか手放さないものである。しかし「高く上げることは、東からでもなく西からでもなく 荒野からでもない。まことに神こそさばき主。ある者を低くし ある者を高く上げられる」(詩篇75:6,7同)とアサフが歌ったように、すべては神の御心から発している。古い自我と欲望がキリストと共に十字架につけられ、低くされることを心から喜ぶという敬虔に生きることがいかに大切だろう。旧約の光りに生きたサウルにそれを求めるのは無理であったとしても、新約の恩寵に生かされている私たちはそうであってはならない。◆というのは、突然終わりのラッパが鳴り響き、携挙の号令が世界に響いたとき、私たちは地上のあらゆること、あらゆるものを・・・それがどんなに大切で、絶対に手放したくないものであっても・・・そこに置いて空中にのぼらなければならないからである。そして「さあ、花婿だ。迎えに出なさい」(マタイ25:6同)との叫び声を聞き、「用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた」(25:10)との瞬間が来る。これは主イエスご自身がお語りになったメッセージであることを心にしっかり刻みつけて歩もう。