しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <耐え忍びなさい>

2022-07-23 | ヤコブ書

「ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。」(ヤコブ5:7新改訳)

ヤコブは手紙の最初で忍耐の必要を勧めたが、最後の結びに来てもう一度忍耐の意味と大切さを強調する。▼今の世にあり、キリスト者はどうして耐え忍ばなければならないのだろうか。理由は正しく公正な審判が現れていないからである。ばく大な富を得る者もいるかと思うと、明日の食べ物にこと欠く人も大勢いる。悪事を働いたのに見つからず、一生安泰に過ごす者もいるし、無実の罪で何十年も獄に入れられる人もいる。まさにこの世は不条理に満ちており、苦しむ人々の叫びは地上にあふれている。▼だがそれもイエス・キリストが地上に再臨されるまでだ。主が世界の王として来られると、あらゆる悪はさばかれ、泣き苦しんでいた人々には正しい報いが与えられることになる。だからヤコブは、「主が来られるのはもうすぐだから耐え忍ぶのだ」と私たちを励ますのである。その反対に、金持ちに対しては、「迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい」と譴責(けんせき)してやまない。あなた方が貯めた膨大(ぼうだい)な富は、主の日にはあなた方を滅びに落とす錘(おもり)になるのだから、と。

私自身は、キリスト者生涯にも「初めの雨」と「後の雨」があるのではないかと思っている。主イエスを信じて救われた人の最初は、すばらしいもので、顔も生活も生き生きと輝いておられるのを何度も見て来た。▼それが残念なことに、何年、何十年も経つと、次第に光少なく、色あせて来るのも見て来たし、途中で信仰を放棄し、教会から消えていなくなる方も無しとはしない。牧師としては心が痛み、煮え湯を飲まされたような気持ちになったこともあった。▼だがふしぎなこともある。何十年も音沙汰なかった方が、晩年ひょっこり教会に戻って来られるケースがあるのだ。大賀ハスの種は二千年の眠りからさめて発芽し、今や日本各地で美しく咲いているが、すっかり忘れていた方の中に、救いの種がちゃんと生きていて、晩年息を吹き返すように目覚める。そして急速に霊性が回復し、あふれる喜びをもって召されていく、そのような例も複数回見て来た。▼やはり神の御選びになったたましいは、時が来るといのちに戻り、御国への用意をすっかり整えて天に出発するのであろう。そういう意味で、後の雨という恵みはたしかにあると思う。しかし誰がそれで、誰がそれでないか、神のみがご存じである以上、私たちには皆目わからないというのが本当だ。だから甘く考えてはいけない。自分は最後に恵みの雨をいただいて天に行ければいいから、途中は自由に、などと思うべきではないのである。「生涯を通じて神と人への愛に生きよ」が聖書の柱なのだから。

 


朝の露 <消えてしまう霧>

2022-07-22 | ヤコブ書

「あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。」(ヤコブ4:14新改訳)

これもまたするどい言及である。人よ、高ぶるな、君たちのいのちは、永遠という時間の中では、明け方に川面をただよう霧かもやのようでしかない、美しいと思っていても半時間もすれば、完全になくなるのだ。まさに雲散霧消という言葉のとおりに。・・・ヤコブは鋭利なメスのように我らの心をいきなり切り開く。ヘブル書にあることばを思い出す人も多いであろう。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」(ヘブル4:12同)▼私たちの中に「明日のことは分からないのだ、自分のいのちはまたたくま消えていく霧のようなものだから」と、心の底から納得して日々を送る者が何人いるだろうか。自暴自棄、もしくはふてくされてそう思う人はいるかもしれない・・・。が、ヤコブはそんなことを言っているのではない。▼全能者の測り知れない御力と御計画こそ、人にとり、すべてのすべてなのだと心から喜んで認める、それがヤコブの言う生き方ではないだろうか。それを軽蔑し、「明日が来るのは当然であり、自分の生涯は自分の能力と自己努力でどうにでもなる、」と頭から思い込んでいるとしたら愚かであり、いざというとき慌てふためくことになる。

人が地上の生を生きるとは、神への謙虚さを持つことである。神のひとり子がナザレのイエスとなられたとき、朝夕起き出でて、まずされたのは何だったか。それは、天の父の御声を聞き、御顔を仰ぐことであった。▼その日一日をどのように歩むか、父のお心に聞き、すべての必要と知恵をいただかれたことであろう。キリストはご自身、全知全能の神であられるのに、ただ天父のお心をその日の糧とされたにちがいない。これが「明日のことを思いわずらわない」ということの真意である。▼それなのに私たちは父に伺うことなどせず、さっさと一日を始め、それをなんとも思わない。そしてその連続が自分の一生となっていくことに良心の咎めなど感じない。だからヤコブは「あなたがたには、明日のことは分かりません」と警戒の矢を射て来るのだ。「天のお父様、こんなとき、私はどうすればよいのでしょうか?」、「父よ、ここで私がなすべきことをどうぞお教えください」と、一日のうち何度ひざまずいて祈る私たちであろうか。謙遜とはそれではないか。イエスのみ足跡を踏むというのは、まさにそのことだ。▼「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。嘆きなさい。悲しみなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。」(ヤコブ4:8~10同)

 

 

 


朝の露 <ことばで過ちを犯さない人>

2022-07-16 | ヤコブ書

「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。」(ヤコブ3:2新改訳)

人の口から出る言葉の罪深さについて、これほどはげしく鋭利な考察がなされている箇所は本章以外、聖書のどこにも見ることはできないだろう。ヤコブはキリスト者として、だれよりも言葉の聖別を追い求めた人であった。▼そもそも、ことばで過ちを犯さない完全な人はただひとり、ナザレのイエスしかおられない。だから私たちは聖霊によってイエス・キリストを心にお迎えする以外、守られる道はありえない。そのことは主ご自身も言っておられる。「木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によってわかります。まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについてさばきの日に申し開きをしなければなりません。あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」(マタイ12:33~37同)▼人が地上生涯を終えたとき、なんと厳粛な日が待ち受けていることだろう。そこで私たちは一日を終えたとき、十字架の前にひれ伏して、その日に口から出した言葉をありのまま告白し、悔い改めるべきは悔い改め、血潮でおおっていただく必要がある。また自分が出した言葉により、だれかが深い傷を負ったことを知ったときには、心から和解することができるよう最善のことをすべきである(マタイ5:21~26同)。

 

 


朝の露 <行いのないあなたの信仰>

2022-07-15 | ヤコブ書

「しかし、『ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります』と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。」(ヤコブ2:18新改訳)

ヤコブはここで、行いと信仰は決して分けることができない、と言う。つまり、A兄には信仰のたまものがあるが、B兄には行いのたまものがあると、両者を別に考えてはいけないというのである。もしA兄が「私には信仰がある」言って、何もしないで座っているとすれば、その信仰は空虚で死んだものにすぎない。信仰とそれにともなう行いは表裏一体であり、「主よ、私はあなたを心から信じます」と言うなら、それは必ずなんらかの行動を生まずにはおかない。ヤコブはそう強調しているにちがいない。▼主は御在世当時の宗教学者、パリサイ人などを「わざわいなるかな、偽善なる学者よ」と手きびしく批判された。なぜなら彼らは信仰世界の指導者を自認し、民衆に神の真理を教える立場を占有していたからである。もしそれが、神の求め期待し給う愛と慈善、公平というわざをともなうものであったなら、主は非難されなかったであろう。だが実際は、エルサレムを中心とする宗教的、経済的および政治的支配体制を築き、モーセ律法の護持をとなえながら、実際は民を搾取していたのであった。▼当時の社会を見渡すなら、大部分は貧民、困窮者であり、奴隷かそれに近い被支配者層から成っていた。福音を宣教する主イエスのもとに集まって来た人々をみれば、それがよくわかる。神が期待されたのは、エルサレム神殿とその礼拝機構に仕える指導者たちから、律法の二大主柱である神と人への愛の行為が、生命の川となって流れ出すことにほかならなかった。言ってみれば、神の御国がかたちをとって地上に実現することであったのだ。しかし実際は逆で、差別と誇り、律法をもって人々を縛り苦しめる事が指導者層のしたことだった。神への信仰に名を借りた虐待の満ちる社会、人の子はその真っただ中に御国の具現者として出現したのである。だが、偽善の学者たちは何をもって主に答えたか。「十字架の極刑」をもって答えたのである。▼ヤコブ書が指摘する信仰と行為の中心にある偽善性とはそれだ。その偽善性が、21世紀に生きている、キリスト者と自認する「あなたや私にも内在している可能性はないのか?」との問いかけ、まさにそれがヤコブ書の中心メッセージなのである。

 


朝の露 <十二部族にあいさつを>

2022-07-09 | ヤコブ書

「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります。」(ヤコブ1:1新改訳)

ヤコブ書はパウロ書簡と趣(おもむき)を異にする。つまり全体に流れる雰囲気がなんとなく違っている。それは当然で、パウロの手紙は異邦人キリスト者が生きる世界を念頭に書かれているが、ヤコブ書はモーセ律法を持つイスラエル民族の中から救われた人々を宛先にしているからである。▼一読すればわかるように、この手紙の論調は手きびしい。ヤコブは明言する、「キリスト者の信仰生活が表面的で行いが伴っていなければ、それは偽善にすぎない」と…。しかしこのことばはユダヤ人キリスト者にかぎらず、長いあいだ信仰生活を送っている私たち・異邦人キリスト者にとっても耳が痛い。ヤコブはまず一章で「みことばを行う人になりなさい」(22)と強調するが、恵みと信仰によって救われたことに安住し、行いの大切さを軽視しているキリスト者が当時も多かったのであろう。考えてみれば、これはあらゆる時代のキリスト者が陥りやすい信仰生活の傾向である。▼彼は続けて言う。「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります」(25同)と…。自由をもたらす完全な律法とは、いうまでもなくキリストご自身のことである。あのベタニヤのマリアは主がお出でになるたびに、その足元に座り、全身を耳にしてみことばに聞き入っていた。今日、このような態度で聖書に向かっているキリスト者がはたしてどのぐらいいるであろうか。多くのキリスト者にとり、聖書は信仰生活を送るうえで参考書ぐらいにしかなっていない。つまり人生のひとつの情報にすぎないのである。▼幼子は父や母がする動作を一心に見つめているので、気がつくと自分のからだがそのとおりに真似をしている。こうして三つ子の魂百まで、とのことわざどおり、行動も価値観も考え方も親の影響を深く受けるのだ。主イエスの臨在の前で、その御姿を信仰により仰ぎながら生活させて頂きたい。思わず知らず、自分の一挙手一投足が主の歩みの写しとなるまで。