しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <隣人を喜ばせる>

2024-04-27 | ローマ書
「私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。」(ローマ15:2新改訳)

キリスト者の使命は、教会の中で自分を大きく見せたり、上に立って力をふるうことではない。御聖霊が与えてくださるたまものと自分の位置に満足し、心から義務(ぎむ)を果(は)たし、兄弟姉妹たちの喜びになることである。▼心臓や膵臓(すいぞう)、肝臓(かんぞう)などはからだの内部にあって働き、決して外に姿をあらわさない。もし肝臓などが外にあらわれたらたいへんである。教会の中で大切な使命をになう人ほど、だれも見ていないところでそのつとめをはたさなければならない。そしてそのことに大いなる満足と感謝をおぼえるのだ。▼反対に顔の目や鼻、口といった器官、手足などはからだの外で使命をはたすことをもって喜びとすべきである。要するに、外部に見える、見えないが問題ではなく、神に置かれた場所で忠実に務めることが大切で、それがキリストのからだを支えていく。キリスト者は自分のため生きるのでなく、主と隣人(りんじん)たちを喜ばせ、その成長を願って生きることに使命がある。

朝の露 <神の国は>

2024-04-26 | ローマ書
「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」(ローマ14:17新改訳)

教会では、愛餐会やさまざまな食事会がもたれる。パーティーや冠婚葬祭(かんこんそうさい)での会食は大切であり、それぞれの交わりに欠かせないものであることはたしかだ。▼ただパウロが言うように、飲食は教会の営みにとって必要欠くべからざるものではない。それらは副次的なもので、教会の生命線はキリストと御聖霊が臨在しているという事実にある。まさに主が言われたとおりである。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20同)▼あの日、エマオ村に向かうクレオパたちふたりに、いつの間にか復活の主が加わり、聖書の真理を熱心に語り合った。そのとき主がお話になると二人の弟子たちは喜びとおどろきで心がおどった、と記されている(ルカ24:32)。教会の姿はまさにこれなのだ。主イエスにより聖書のことばが開かれ、会衆が我を忘れて聞き入る、天の飲食がそこに現れる。

朝の露 <闇(やみ)のわざを脱(ぬ)ぎ捨て>

2024-04-20 | ローマ書
「夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。」(ローマ13:12新改訳)

キリスト教会は地上で漫然(まんぜん)と時間を費やしているのではない。理由は、今の時代が歴史の終末に向かって加速度的に流れ下っているからである。あのナイアガラの瀑布(ばくふ)のように・・。▼広大なローマ帝国を旅行し、宣教に身をささげて来たパウロは、その中で行われている悪の数々、身の毛がよだつような腐敗(ふはい)と闇の姿を見て心をいためていた。その少しの描写(びょうしゃ)が本書一章に記されている。ユダヤ人だろうと異邦人だろうと、闇のわざ、すなわち神への罪を悔い改めないで、審判者の前に立つことはできない。永遠のゲヘナが轟音(ごうおん)を立てて燃え盛(さか)っている光景をあなたは知らないのか、その中に落ちた人々の絶叫(ぜっきょう)が聞こえないのか。▼そうならない道はただ一つ、闇のわざ、つまり古き人を脱ぎ捨て、復活された主イエス・キリストを着ることだ。欲望を満たそうと、肉欲の奴隷になってはいけない。――キリストの再臨の足音を日々、心に聞いていた使徒の勧告(かんこく)である。


朝の露 <慎み深く考えよ>

2024-04-19 | ローマ書
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。」(ローマ12:3新改訳)

パウロはキリスト者たちが教会で互いに生きていくためには謙遜が大切だと強調する。なぜなら、教会はキリストのおからだであり、信仰者ひとりひとりはその器官だからだ。▼心蔵や胃、また、目や鼻といった顔の各部分でもそれぞれの働きと使命があり、それを超えて勝手に行動すれば、からだは成り立たない。内臓は外の人の目にふれることなく、生涯見えないところで働き続けるという大切な使命を持つ。内臓が外にあらわれたら大変である。反対に目や鼻、手足といった感覚器官は外部で働くことにより、からだ全体の機能を支え守る。▼すべては御霊がそれぞれを配置し、必要な力を与えてくださるのであって、私たちは勝手に自分を主張してはならず、喜び感謝して自分の立場に専念すべきである。そのとき必要なのは謙遜であるという使徒の声を心に刻みながら・・。

朝の露 <イスラエルの救い>

2024-04-13 | ローマ書
「もし彼らの捨てられることが世界の和解となるなら、彼らが受け入れられることは、死者の中からのいのちでなくて何でしょうか。」(ローマ11:15新改訳)

イスラエル民族が福音を拒否し、神から捨てられた結果、世界の諸民族が十字架により救われる恵みの時代が出現した。この二千年間、救いに入れられた人々の数は、たしかに空の星、海の砂のように多いといえよう。一人の人のいのちは「地球より重い」価値を考えれば、イスラエルの背き(そむき)は、結果的に測り知れない祝福を世界にもたらした。▼とすれば、彼らが心から悔い改め、救い主に立ち返り、文字通り「イスラエル=神の皇太子=神の宝物」と変えられた時、いったいどれだけの祝福が世界にもたらされるか、何人(なんびと)も想像することは不可能である。来たるべき地上のメシア王国、その形容できない豊かさと喜びをパウロは知っていた。▼そこで私たち異邦人から成る教会も、使徒と声を合わせ祈らなければならない、「兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです」(ローマ10:1同)と。