しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <彼らは御名のために>

2022-09-16 | 第三ヨハネ
「彼らは御名のために、異邦人からは何も受けずに出て行ったのです。」(Ⅲヨハネ7)
この手紙が記されたのは一世紀も終わりに近づいた頃だが、世界各地に出来た教会を福音宣教のため巡回する人々が大勢いたようだ。主イエスもしばしば一二弟子を派遣し、福音を宣べ伝えさせたし、その他に七〇人を選んで遣わされたことも記されている。当時のキリスト者たちが聖霊に励まされながら活発に活動していたことがわかり、興味深い。しかもこれは二千年間にわたって世界中で続けられ、今日に及んでいるのである。▼一九世紀中頃になると、東の果て、日本にも宣教師たちが来日した。その犠牲的な働きにより、今日の私たちがある。もちろん根底に御聖霊の強いお働きがあり、その感動により世界宣教は進められて来たし、これからもそうである。このお方は世界中からキリストのはなよめを捜し出し、救いに導いて教会の完成を急いでおられる。すなわち再臨促進のため全力を挙げておられるのである。最後のラッパが鳴りわたる神の国完成の日は近い、と思えば心が自然におどるではないか。

愛の使徒といわれるヨハネは、ガイオへの感謝とともに、宣教の妨害をしてやまないディオテレペスについても言及している。この者は「教会の中でかしらになりたがっている」人物であった。キリスト者がふえ、地方教会の組織化が進んで行くと、どうしても肉的な信仰者もふえ、勢力争いが起きるのは教会の常である。▼主の十二弟子たちすら、この中で一番のリーダーは誰かと論争していたのだから無理もない。しかも、間もなく主イエスが十字架につけられる、と言う時にそうしていたのである。組織化と序列化は車の両輪のようなものである以上、避けられないと言う人もいるだろう。しかしその中で、もっとも重要なことは謙遜であると主が教え諭されたことを、キリスト者はいつの時代でも強く心に刻んでおく必要がある。▼キリストのからだという「生命体」の中で生きる時、すべての兄弟たちの最も後方(しりえ)に喜んで自分を置くことができるか、それが私たちに問われる最期の問いである。パウロが言い残した言葉をいつも思うべきではないだろうか。「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15同)


朝の露 Ⅲヨハネ <ディオテレペス>

2020-03-13 | 第三ヨハネ

つくし

「ですから、私が行ったなら、彼のしている行為を指摘するつもりです。彼は意地悪なことばで私たちをののしっています。それでも満足せず、兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。」(10新改訳)

一世紀も終わり頃になると、教会のなかに様々な主張をする人たちが現れ、福音の正しさをめぐって戦いの始まっていたことが、ヨハネの手紙から推察できる。▼しかしその戦いを通して、本当に霊感された書物が注意深く選ばれ、保存され、今日の新約聖書が成立するに至った。御聖霊が人々の心に正典を識別できる力を与えた結果、どんなにもっともらしい内容であっても、霊感されていないと認められたものは、決して新約聖書に入れられなかった。▼ヨハネ黙示録は一世紀末に記されたといわれるので、神は以後二千年に及ぶ教会を、この正典によって守り支えて来られたことになる。これは人類歴史を支配統御されるお方の絶大な知恵と御配慮によるものであった。そして神の支配統御は、これからも御再臨の日まで続く。◆さて、本書でヨハネは「かしらになりたがっているディオテレペス」(9)という表現を用いた。そもそもキリスト教会は、御霊によって新しく生まれ変わった信仰者により形成されるはずのものである。ところが実態はそうでなく、「かしらになりたがる性質」を心に温存したままの信仰者がおり、これが問題なのである。要するにこれは神の地位をねらった悪魔の性質で腐敗性の中心をなし、「毒麦」となって教会内に混在している。十二弟子たちもイエスに従いながらこの性質に支配され、主の十字架直前まで「だれがいちばん偉いか」と争っていた。ペテロが「下がれ、サタン」(マタイ16:23同)と一喝されたのもうなずける。◆しかし神は深い御計画と配慮から、あえて教会を良い麦と毒麦が混在したままの畑として御再臨の時まで保存しておられる。良い麦100%の畑だったらどんなに幸せか、とつくづく思うのだが、そうでないところに主の御摂理の深さを私たちは思わなければならないのも事実なのだ。御霊とともに歩むキリスト者は、争いの波にもまれ、自らがほんとうに謙遜であるかどうか、また、そのことを心から喜びとできるかどうかをテストされて行く。ディオテレペスに軽んじられ、無視され、時にはののしられ、つらく悲しい信仰生活を送らなければならないかもしれぬ。◆だがそこを通るとき、子羊の本性である謙遜が、絵に描いたモチから聖霊による徳性となってその人に受肉していくのだ。かくて、みにくいアヒルの子といやしめられた者が、かの日、主の御前で純白のハクチョウと変貌するであろう。そこに私たちの目標と希望を置かせていただきたい、と願う。

 

 


朝の露 Ⅲヨハネ <私の子どもたち>

2017-09-22 | 第三ヨハネ

ひまわり「私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。」(4新改訳)

本書冒頭のガイオはおそらく、ヨハネが救いに導いた人であろう。つまり使徒にとっては「霊の息子」だったわけである。▼パウロもテモテを、「信仰による真実のわが子テモテ」(Ⅰテモテ1:2)、また「愛する子テモテ」と呼んだ(Ⅱテモテ1:2)し、ローマ獄中で救いに導いた逃亡奴隷のオネシモを「獄中で生んだわが子オネシモ」(ピレモン10)と呼んで、その魂に対する愛を表わした。もちろんこの愛は神から出ているもので、人間が生まれながらにして持つ、いわゆる「愛情」とは異なっている。▼ひとりの人が永遠の滅亡から救い出され、天国へ国籍が移されたということは小さなことでなく、「神の御使いたちに喜びがわき起こる」(ルカ15:10同)、すなわち第三の天が喜びの歓声にゆれ動くほど大きなことだ。だからこそ今、主は大祭司として御父の右にあり、「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です」(ヨハネ17:17同)と祈り、子どもたちが最後まで愛の内を歩み続けるように、とりなしておられるのである。◆ここに「かしらになりたがっているデオテレペス」(9)とあるが、使徒ヨハネには大きな喜びと同時に、憂いもあった。それは肉によって歩む信徒たちの存在である。12弟子たちが、主の十字架直前まで「この中で誰が一番か」と、争いをしていたように、いつの教会でも指導権に関する陰湿な争いがあったことは否めない。つまるところ、この原因は「キリスト・イエスの心を心とせよ」(ピリピ2:5文語)ができていないことにある。◆全き謙遜が人となって出現された、それがイエス・キリストであるのに、理解できないし受け取ろうともしない、そのようなキリスト者が「畑の毒麦」となる。その最後は審判の火であることを銘記し、主をおそれる道を喜びのうちに歩むことが、真の意味で再臨の備えとなる。貴方や私はどうであろうか。デオテレペスの精神からほんとうに解放され、仕える喜びに昼も夜もあふれつつ歩んでいるだろうか。


第三ヨハネ <デオテレペス>

2015-03-20 | 第三ヨハネ

 たまのうら「私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。」(9新改訳)

いつも人の上に立とうとする心理は、みにくい罪の腐敗性でサタンにその源を発する。

ヨハネの晩年、教会にはきよめられない心を抱いたままのキリスト者が多く入り込み、かき乱していた。それは今日まで続いており、にせ兄弟姉妹たちのために、教会と牧師はどれだけ悩まされているかわからない。いや、牧師の中にも、上に立つことや教会を自分の思うとおりに支配したいと望む者たちが沢山おり、羊たちを苦しめているのが実情である。

あの12弟子たちも主の十字架直前まで、誰がリーダーかと言い争いをしていた。彼らがそのような高ぶりと腐敗性から自由になったのは、ペンテコステの聖霊傾注以後である。だから教会が再臨の主の前に立つためには、リバイバルが必要である。デオテレペスの霊から自由にされ、愛する主の新婦となるために。

[つばき:玉之浦]