しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <主は近いのです>

2022-02-19 | ピリピ

「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:5,6新改訳)

キリスト者信仰の根底に必ず据えるべき事実は、主のお出でが近いということである。ヤコブも「あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです」(ヤコブ5:8同)と警告した。▼しかしある人は、「もう二千年経った」と言うかもしれない。だが人個人の生涯はそれぞれ百年にも満たないわずかなもの。再臨前にそれが終われば、機織りの布が切り取られ、納められるように、あとは主の日を待つだけとなる。やり直しや変更はいっさい効かず、永遠が決定されるのだ。その意味で地上生涯は厳粛この上もない。だから私たちは一日一日を大切にし、御霊と共に歩み、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22同)に代表される聖霊の実を、豊かに結ばせていただこうではないか。かの日、喜びをもって愛する主にそれをささげるために。

ピリピの聖徒たちに書簡を送ったとき、パウロはローマの獄中にあった。当時の囚人の生活状態は劣悪なもので、困窮をきわめていたことが想像できる。彼は少数の弟子たちの支えにより、飢えをしのぎつつ皇帝の開く裁判と判決を待っていたわけである。▼たぶんピリピの信徒たちの耳にも使徒の貧しさと困難は伝わって来たのであろう。彼らは義援の品々をエパフロディトに託してローマに届けたのであった。パウロは大いに喜び、この手紙を書き送ったのだが、自分は困難の中にありながら、「すべての理解を超えた神の平安」(7)に満たされつつ毎日守られている、と証ししている。よく見れば彼の周囲に、明るい材料などひとつもない。数々の奇蹟と宣教の不思議で活躍していた頃ならともかく、獄中で死刑の判決を受けるかもしれない老囚人を、誰が相手にするだろう。巷にはキリストの福音を伝える人々は大勢いたろうが、パウロとその宣教を非難し、十字架の福音を否定する者たちも多数いた。彼らはパウロが形成した教会を巡り歩いては、「そのまちがいを指摘した」。その毒牙にかかったのがガラテヤの信徒たちである。▼牢獄で身動きのとれないパウロ、彼のできることは祈りと執り成しだけであった。しかしキリストの御霊により、不思議な境地に連れて行かれたのである。「何も思い煩うことなく、ただ感謝をもって各地の群れについて執り成しの祈りをささげるとき」、使徒の心はなぜか「すべての理解を超えた神の平安」により満たされ続けたのであった。▼この平安こそ、あらゆる時代のあらゆるキリスト者が戴くべきものである。それは天にいます大祭司キリストから地上に送られてくる神の平安だ。どんな事情境遇も、死の不安や脅かしも、貧窮も八方ふさがりもどうすることもできない全能者からの平安である。それは死と滅亡をうち破った復活のいのちであられるお方がもたらす平安である。キリスト者は各自がこの天的平安を内に宿すとき、いのちの書に名を記された人々の戦列に加えられた、といえるのである。

 


朝の露 <国籍は天に>

2022-02-18 | ピリピ

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20新改訳)

パウロの信仰生涯における最高・最大の目標は復活と栄化にあった。▼そもそも彼はダマスコへ向かう途中で、復活して天におられる主イエスに会った人である。また宣教旅行の中で第三の天に引き上げられ、誰も見たことがない世界を目撃し、人が語ることのゆるされない言葉を聞いた人物でもある。だから彼にとって復活栄化にあずかることは観念や空論ではなく、生きた現実の希望であった。言葉をどんなに尽くしても、そのすばらしさを分かってもらえないもどかしさを常日頃感じていたパウロは、愛するピリピ教会の兄姉たちに、最後の訴えをする。▼私はキリストのゆえにすべてを失ったが、それを塵芥(ちりあくた)と考えている。かつては自分を高めるためにあらゆることを目的にして励んでいたが、今はそのすべてを損と思っている。ピリピの人たちよ、再臨の主に会い、復活の栄光にあずかることは、それほどに素晴らしく、何物をもっても代えられないことなのだと。

同時にパウロは、この章で厳粛きわまりない事実を告げる、「その人たちの最後は滅びです」(19)と・・。その人たちとは、どんな人たちか?「キリストの十字架を敵視する人たち」、「自分の欲望を神とし、汚れた考えや行いを嫌悪するどころか逆に自慢し」、「地上のことだけを考えて生きる人たち」、「キリスト者であると言いながら、内側は犬(偶像礼拝者)のような本質を持ち、純朴な信仰者をだまして最後は破滅させようとする人たち」を指すのである。ピリピの兄弟たちよ、気をつけなさい。あなたがたの周囲にこれらがうようよしており、たえず教会をねらっているのだから。▼喜びの書簡といわれるピリピ書で、使徒がこんなにもきびしい表現を用いて、十字架の敵たちを名指しで非難していることにおどろく。だが、私たちが輝かしい復活の世界に入るというのは、一面、それをさせまいとする闇の勢力との熾烈な戦い(むろん信仰的霊的な)が避けられないのだ、という証明でもある。パウロはそう述べているのである。▼21世紀の今、われわれの周囲は「地上のことだけを考えて生きる人たち」であふれかえっている。パウロのことばを借りれば、「その人たちの最後は滅びです」と言うことになろう。天にいます御父と御子の痛みはどれほどであろう。主はたぶん私たちに呼びかけておられる、「子どもたちよ、滅び行こうとしている者たちのため涙を流しなさい。そしてあなたにできることをしなさい」と。

 


朝の露 <私は喜びます>

2022-02-12 | ピリピ

「たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」(ピリピ2:17新改訳)

注ぎのささげ物になるとは、裁判で死刑の判決を受けることを意味する。しかし一方では、近いうちにあなたがたのところに行けると確信している(24)とも言っているので、判決がどう出るかはまだ分からなかったのであろう。おそらくどちらも可能性があったと思われる。▼いずれにしろ、それは使徒にとって小さなことであった。彼の最大の願いは、ピリピの信徒たちが常に心を一つにし、互いに尊敬し仕え合い、きよい歩みをして光のように輝くことであった。そうすれば、教会は邪悪な世代の中にあって世の光として輝くことができ、結果として大勢の人々を救いに導けるのだ。▼このように、パウロは私利私欲の世界を完全に超越してしまい、キリストの御名だけがあがめられること、ただその願いに身も心も占領されていたことがわかる。なんとすばらしい聖徒の姿であろう。ピリピ書が喜びと勝利の書簡といわれるのはこのためである。

 


朝の露 <生きるにしても死ぬにしても> 

2022-02-11 | ピリピ

「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」(ピリピ1:20新改訳)

ローマ獄中にあったパウロは、すでに生死を完全に超越していた。主のみこころなら、生きるもよし死ぬるもよし、ただ願うところは主イエス・キリストの御名があがめられることであった。▼私たちはどうか。人生の終わりが近づいても、ひたすら生きることにしがみ着く。なかなか主に自分のすべてをゆだねようとしないのである。思えば恥ずかしいことだ。それに比べ、パウロの心はなんと広く寛容であったことか。▼信仰者の中にも彼の投獄を悪く言い、まちがった福音を伝えているから、あのような目に会うのだとか、彼は本当の使徒ではなく、自分勝手にそう言っているだけだ、と非難する勢力があった。しかしパウロは憤慨したり怒ったりしない。要するにイエスがキリストであるとのメッセージが世界に広がって行くなら、私がどんなにけなされようと問題ではない。それは喜ばしいことであると。

自分は不当に扱われている。理不尽な処置に対し、黙っていることはできない。どこまでも不正を糾弾し、社会正義を実現しなければ承知しないと。世にはこのように息まき、こぶしを振り上げ、口角泡を飛ばして叫ぶ人たちがなんと大勢存在することだろう。その反対に、貝のように固く口を閉ざし、部屋に閉じこもって一切出て来ない人もいる。▼パウロはそのどちらでもなかった。彼が生きることはすなわちキリストが自分のうちにあって生きられることであり、その聖なる意志が自分のすべてに浸透し、支配していることであった。そこで主の御心であれば、牢獄に閉じこめられるのもよし、町々を経巡って福音を立証することもよし、石で打たれるのもよし、感謝されて喜ばれることもよし、はだかでもよし、満ち足りるのもよし、飢えることも追いはぎに会うことも、難破して海上をただようこともよし、神の処遇で感謝ならざるはなし、まさにそういう心境だったのだ。なんという自由人であったことか。▼しかしその自由は、世の宗教者のような悟りとは異なる。彼は神の手にあり、霊魂は至高の天に連れて行かれ、そこに存在していた。まさにパウロは神の御座のそばに座らせられ、そこから地上と地上にいる自分を見ていたのである。自分はもはや地上で生きていない。そこに存在するパウロはキリストが内に生きておられるパウロにほかならなかった。だから誰に悪口を言われようと、傍若無人の扱いを受けようと、問題ではない。イエス・キリストがそうされているのであり、なおますます十字架の栄光が現れ、福音が輝くだけなのであった。「私にとって生きることはキリスト」である。死ぬことはもっともすばらしいことだ。なぜなら地上の仕事を完全に終え、キリストとともに天における永遠が始まるからである。早くその日が来てほしい、そう願いながら、彼はピリピの人々に語っていたのであった。

 


朝の露 ピリピ4章 <喜びなさい>

2019-08-24 | ピリピ

あさがお青「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4新改訳)

ピリピ書には、「喜び」、「感謝」という語が少なくとも二〇回記されている。それと反対に罪という語は一度も出て来ないし、ピリピ教会を責め、叱るような論調はいっさい見られない。その点、ガラテヤ書などとは対照的である。▼思えばこの時、パウロは獄中の人、たぶん手足を鎖につながれ、起き伏しもままならず、まことにあわれなありさまであった。加えて裁判の行方によっては殉教の可能性さえあったことが知られる(2:17)。それなのに彼の口からは、抑えきれない喜びと感謝が泉のごとくあふれ出て、二千年の時を超えて読む私たちにまで伝わってくる。もはや自分の生死など眼界に映らない。文字通り「生きることはキリスト、死ぬことは益です」(1:21)であり、地上にいながら、同時に天上にもいる状態であった。なんという勝利だろう。▼人はキリストにより、ここまで変わることがゆるされる。かつての罪人の頭が、キリストの満ち足れる姿にまで変貌させられるのである。まばゆいばかりに輝く灼熱の溶岩流に近寄ってみよう。熱さにからだがほてるのをおぼえながら・・。「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:33~39同)