「エルサレムの娘たち。私はあなたがたにお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」(雅歌8:4新改訳)
雅歌書はこの句をほぼ同じ形で三度くり返している(2:7、3:5、8:4)。それだけ大切な意味を持つ、ということであろう。愛は人が好きな時、好きなだけ持てる情感かというとそうではない。というのは、まことの愛は神から発し、神の御本質そのものだからである。▼そもそも私たちは愛というものを知らなかった。エデンの園で平和に暮らしていたアダムたちも、神の愛に包まれていたが、その愛を本当には知らなかった。ところが罪を犯し、放逐され、死と暗黒をさ迷っているとき、初めて十字架によって愛を知ったのである。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」(Ⅰヨハネ4:9同)▼何も知らなかった私たちに、神のほうから一方的に愛を現わしてくださった。しかも十字架にひとり子を屠るという驚くべき形で!「愛がそうしたいと思うとき」とはこれではないだろうか。▼ゴルゴタの十字架はこの二千年、歴史の事実として、すべての人の眼前に立ち続けている。しかし、ではすべての人が神の愛を知ったのか?というと、そうではない。むしろ逆であり、ほんのわずかな人だけが全人格を揺り動かされ、全生涯をかき立てられるような経験をしただけなのである。私はそこに、犯し難い「神の絶対権」の存在を感じさせられる。▼主イエスが五千人の群衆(男だけで)に五つのパンと二匹の魚から、満ち足りるだけ食べさせられたとき(→ヨハネ6章)、人々は熱狂的にイエスを支持し、弟子として追従していった。にもかかわらず、主が「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです」(ヨハネ6:55同)と証しされると、彼らはつまずき、みもとを去って行った。そのとき言われた主のおことばの重みを感じさせられる。「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」(ヨハネ6:65同)▼まことの愛は、人間の側で揺り起こしたり、かき立てたりすることによって生じることはない。それは天の御父の絶対権に属することなのである。今も無数の人々がゴルゴタの丘を取り巻いているだろう。しかし厚いヴェールが心の目にかかったまま、そうしているのではないだろうか。その中にあって、ただ父に引き寄せられた人々だけが、十字架のそばに歩み寄り、主を見上げることをゆるされる。もし貴方や私がそのひとりだったら、じつに幸いだ。神に招かれ、ゆさぶられ、かき立てられた者とされているのだから。
「私は言った。『なつめ椰子の木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうの房のようであれ。息の香りはりんごのようであれ。』」(雅歌7:8新改訳)
主は弟子たちに、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます」(ヨハネ15:5同)と言われた。ここで言う多くの実とは御霊の実といわれるもので、キリスト者の品性からおのずと流れ出る「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22同)という徳性である。このようにすばらしい人格上の香りが自然に流れ出ている人があれば、多くの人々がそれに惹かれて集まるにちがいない。ナザレのイエスのみもとにいつもたくさんの群衆が集まって来たのはなぜだろう。それは、ただ奇蹟のすごさに驚いたからではない。(もちろんそういう人たちもいたろうが)▼社会から見捨てられた人、差別や偏見に苦しむ人、過酷な律法を課せられて希望を失った人、そんな人たちがイエスの御人格から発せられる神愛の豊かさにひきつけられたからなのであった。主イエスの人となりには、誰をもさばかず、だれをも拒ます、受け入れて理解する雰囲気があたり一面に漂っていた。すなわち天のやさしさが広がっていたのである。それでいながら、そこには冒し難い聖と権威に包まれた御人格があった。雅歌が歌うなつめ椰子の実とはそれを指している。▼もし、枝が木につながっているようにキリストにつながり、その樹液を十分に吸うことがゆるされるなら、私たちもまたぶどうやなつめ椰子のようにされるであろう。神はそのことを期待しておられるのだから。大切なことは主の愛を喜び、感謝し、昼も夜もそこにとどまることに尽きる。そのようにしてたわわに実ったブドウの木を、神はいかに喜ばれることであろうか。
▼岩なるイエスは▼
①岩なるイエスは わが身をみもとに引き上げ 裂け目の中に安けく かくまい給えり
②岩なるイエスは わが身の重荷を取り去り 動かぬ高き所に立つを得しめ給う
③数えも難き恵みに わが身は満たされ あがない主の尊さ 夜も日もほめ歌わん
④この世を去りて 空行く栄えのあしたよ あがないを受けし人々 声合わせ歌わん
〔折返〕 み怒りは過ぎ行くべし わが身の隠れ家 岩なるイエス おおい給わん 愛のみ手もて、愛の御手もて
<聖歌506 Fanny J Crosby,1820-1915>
「汚れのないひと、私の鳩はただ一人。彼女は、母にはひとり子、産んだ者にはまばゆい存在。娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、側女たちも見て、彼女をほめた。」(雅歌6:9新改訳)
前章で花婿を見失ったはなよめは、ここで交わりを回復し、両者はお互いの愛を賛美し、ほめたたえる。すなわち彼女は「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」(2)と言い、花婿は「汚れのないひと、私の鳩はただ一人」(9)と愛を吐露するのである。▼来るべき神の国は、あらゆる時代から選びにあずかった多くの信仰者たちによって構成されるであろう。しかし、主がご自身のはなよめとして特別に愛する存在はただひとりで、キリストのからだにして妻、新しい神の都、天のエルサレムである。それが雅歌書で「はなよめ」と呼ばれているわけである。▼マリアにとって自分の息子イエスは特別だったごとく、人類にとってこひつじの妻となった人々は、ひときわ、まばゆい存在となるであろう。キリストの救いに入れられた人は、この妻とされることを生涯の目標にすべきである。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4同)。モーセの幕屋で大祭司として神に仕えたアロンの胸には12の宝石が輝いていた。それは彼がイスラエル12部族のことをいつも「心の上に置き」、神にとりなしをするためであった。▼天上の大祭司イエス・キリストの胸に宝石よりも尊い存在として、えり刻まれているのは、異邦人からも選ばれて真のイスラエルとされた「こひつじのはなよめ」である。私たちはたんにキリストの手に握られたものではなく、その心臓に刻まれた、いのちの宝なのだ。主イエスの御心の上に昼も夜もおかれているのは、このはなよめが完成し、天に迎えられ、こひつじの婚宴にキリストの新婦として座ることである。筆舌に尽くしがたいこの選びと愛こそ、地上ではなよめたちが喜びのうちに犠牲をはらい、こひつじに従って行く動力源になっている。
「私は起きて、私の愛する方のために戸を開けようとしました。私の手から没薬が滴り、私の指から没薬の液がかんぬきの取っ手に流れ落ちました。」(雅歌5:5新改訳)
はなよめは愛するお方から「戸を開けておくれ」と言われたとき、つい自分を見てしまい、開けるのをためらった。そのわずかな心の隙間が愛の交わりを失わせたのであった。▼やがて主イエスが、愛する者を迎えに天から来られる時、呼び声にただちに答えて進み出る者がキリストのはなよめではないだろうか。「主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい」(ルカ12:36同)とある。ロトの妻はソドムから脱出する際、あれほどきびしくいましめられたのに、ほんの一瞬だけふりかえって町を見、塩柱になってしまった(創世記19:26)。ほんとうに厳粛だと思う。▼それとおなじように、花婿に対するはなよめの愛が最後にためされる瞬間は、「さあ、花婿だ。迎えに出なさい」(マタイ25:6同)との声がかかる再臨の時である。