しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <乳と蜜の流れる地>

2024-08-26 | 申命記
「あなたの聖なる住まいの天から見下ろして、御民イスラエルと、あなたが私たちの父祖たちに誓われたとおり私たちに下さった土地、乳と蜜の流れる地とを祝福してください。」(申命記26:15新改訳)

イスラエル人たちは約束の地、乳と蜜の流れる地を占有したとき、そうさせてくださった神への感謝を決して忘れないよう命じられた、それをくわしく記したのが本章である。▼彼らは感謝のそなえものを主にささげる時、神の指定された場所でそうするよう固く定められた。最初はシロというカナン中部に幕屋が置かれたので、人々は毎年そこに上ったのであったが、ソロモン時代にエルサレム神殿が造営され、正式な礼拝場所となった。▼にもかかわらず、王国の歴史を読むと、人々の多くは命令を守らず、国中の高い場所や木々の根元で供え物を献げ、自分勝手な礼拝を続けた。そうするうちに次第に偶像礼拝が始まり、不品行も行われるようになって、国力は弱まり、最後にはアッシリアやバビロンに占領されて滅びたのである。▼神への正しい礼拝と感謝をささげるのがどんなに大切かをあらためて思わせられる。「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる『割礼』を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、へだての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。」(エペソ2:11~15同)

朝の露 <二重計測の罪>

2024-08-22 | 申命記
「こう言うのは、このようなことをして不正を行う者すべてを、あなたの神、主が忌み嫌われるからである。」(申命記25:16新改訳)

「このようなことをして」とは、重さや量目を量るとき、異なる目盛りのついた秤(はかり)や升(ます)を用意し、不正をすることである。もしこれらの不正が横行すれば、世の中の正義は崩れ、倫理道徳は腐敗してしまう。だから主は特にこの罪をきびしく注意された。わが国でも重要な升や秤には、国家の正式な検定印が必ず押されている。▼さて、このことを霊的、信仰的に味わうことも大切だ。つまり、私たちキリスト者は他人の何かを判断する場合、心に二重基準(ダブル・スタンダード)を設けてはならない、ということ。ヤコブが言う通りである。「あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、『あなたはこちらの良い席にお座りください』と言い、貧しい人には、『あなたは立っていなさい・・・』と言うなら、自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。」(ヤコブ2:3,4同)

朝の露 <愛と慈悲の神>

2024-08-21 | 申命記
「貧しく困窮(こんきゅう)している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地の、あなたの町囲みの中にいる寄留者でも虐(しいた)げてはならない。」(申命記24:14新改訳)

申命記を学んでいると、旧約聖書に示されている神はいかに慈悲深く、愛に富むお方であるかと感動する。本章は特にその印象が強い。▼新婚まもない男性は戦争に出ないで妻を慰めなければならなかった(5)。質を取るときは生きる最後の手段であるひき臼は除くこと(6)、貧しい人の担保(たんぽ)は夜を迎える前にかならず返すこと(13)、困窮している人は同胞でも寄留者でもいたわり、賃金はその日のうちにかならず支払うこと(14、15)、寡婦(かふ:みぼうじん)や孤児(こじ)、寄留者たちの権利を侵(おか)さず、畑や果樹園の産物はその人たちのため取りつくさずに残しておくこと(19~21)などで、イスラエルがこれを忠実に実行していれば、占領したカナンは文字通り「乳と蜜の流れる地」になり、天の恵みに満たされ、飢饉(ききん)などは無縁の地になったにちがいない。▼悲しいかな、王国の歴史はその反対になった。現代世界もそうだが、キリスト者だけは主の恵みにより、モーセの命令を実行させていただきたいと願う。

①心から願うのは 主のようになること 御形に似るため 世の宝捨てます
②同情に満ち溢れ 愛に富み、やさしく 迷う人見出して 主の許に導く
③謙遜と忍耐と  勇気とにあふれて  人々を救うため 苦しみも厭わず
④主よ近く参ります 御油を注いで 今すべて主のものと 変わらせて下さい
⑤主の御霊、主の愛を 祈る間に満たして み住まいにふさわしい 宮としてください
    主のように主のように きよくしてください
    この心 奥深く み姿を写して
         <新聖歌382 詞:Thomas O.Chisholm,1866-1960>

朝の露 <神殿娼婦・男娼>

2024-08-20 | 申命記
「イスラエルの女子は神殿娼婦(しんでんしょうふ)になってはならない。イスラエルの男子は神殿男娼(しんでんだんしょう)になってはならない。」(申命記23:17新改訳)

昔から宗教と不道徳は深く結び着いてきた。わが国でもしかり、江戸時代には大きな偶像神殿の近くに遊郭(ゆうかく)が設けられ、参拝(さんぱい)に来た人々は帰りにそこで遊ぶことを楽しみに全国から集まったのである。「精進(しょうじん)落とし」と言ったそうだ。▼これは日本だけでなく、世界各地に見られる風俗(ふうぞく)習慣であった。モーセがイスラエル人にきびしく命じたということは、すでに当時、カナンやエジプトにあった多くの宗教施設で、それが常態化(じょうたいか)していた証明でもある。▼イエス・キリストを主とし、天の父を唯一の神と信じる者は、このような悪習慣を断ち切ったきよい生活をしなければならないのは当然である。そこに永遠のいのちがかかっているからだ。「自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都(聖なる都、新しいエルサレム)に入れるようになる。」(黙示録22:14同)▼私たちも、地上生涯の最後まで「自分の衣を洗う者」であるように。

朝の露 <見ぬふりをすること>

2024-08-19 | 申命記
「彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の衣についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくした物をあなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。見ぬふりをしていることはできない。」(申命記22:3新改訳)

同じ神を信じる者として、イスラエル人には同胞愛(どうほうあい)に生きることが義務づけられた。だれかが困っていたり、大事な物をなくしたりしたときは決して「見て見ぬふりをしている」ことはゆるされなかったのである。▼まして私たちキリスト者は神の愛を内に宿した者として、どれほど兄弟愛に生きなければならないことであろう。主イエスがお命じになったことばを深く心にきざみながら生きるべきである。「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」(ヨハネ15:17同)▼主が再臨されると、キリスト者たちは預かったタラントでどれだけ儲けたかを報告することになるだろう。いうまでもなくタラントの本質とは隣人愛に生きることだ、と私は思う。「さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。すると、5タラント預かった者が進み出て、もう5タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に5タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに5タラントをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25:19~21同)