しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <神はおひとり>

2024-07-18 | 申命記
「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」(申命記5:7,8新改訳)

モーセは十戒をふたたびイスラエルに語る。神はただおひとり、これは千古不変(せんこふへん)の真理であることはいうまでもない。なぜなら、神がエデンにあって人をご自身のかたちに造られたとき、そこにほかの神々はいっさい存在しなかったからだ。逆に言えば、人間はなぜ不幸になってしまったのか?という質問に対する答えのすべてが、結局のところ、このみことばにある。▼モーセはエジプトから救い出された自分の民にこれを語ったのだが、今や神は全世界のあらゆる人に、イエス・キリストによってこのみことばを語っておられる。なぜイエス・キリストなのか?といえば、全人類はこの方によってのみ、神に立ち返ることができるからだ。歴史は、イスラエル民族すら罪のために神の約束を守らなかったことを示し、全く新しい道、つまり恵みと福音の道を神ご自身がイエスによって設けられたことを証ししている。すべての人はこの招きを退けてはならない。退ければ、あとに残るのは永遠のほろびだからである。

朝の露 <主だけが神>

2024-07-17 | 申命記
「今日あなたは、上は天、下は地において主だけが神であり、ほかに神はいないことを知り、心にとどめなさい。」(申命記4:39新改訳)

この章でモーセは、イスラエルに現れた方が唯一絶対の神であり、その主が与えてくださった律法がいかにすばらしいものであるかを切々と語っている。そしてこの神から離れ、カナンの偶像礼拝などに引き込まれてはならないことをきびしく、かつ厳粛に命じている。▼キリスト者にとり、さらにすばらしいのは、この神ご自身が人として来られたことを信じる信仰に入れられたという事実である。なぜなら、イスラエルはこれほどモーセから注意されたのに神を捨て、異邦の偶像礼拝にそまり、とうとう約束の地から追い払われてしまったが、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって新しい救いの恵みに入れられ、永遠の神の国の相続者とされたからだ。▼約束の地といっても、キリスト者に与えられるのは現在の天地ではなく、復活の新天新地であり、比べ物にならない栄光の富である。モーセが生きていたら、どれほど驚いたであろう。「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。」(黙示録21:1,2同)

朝の露 <バシャンの王オグ>

2024-07-16 | 申命記
「―バシャンの王オグはレファイムの唯一の生き残りであった。見よ。彼の寝台は鉄の寝台で、それはアンモン人のラバにあるではないか。その長さは基準のキュビトで九キュビト、その幅は四キュビトであるー」(申命記3:11新改訳)

当時、カナン地方にはいわゆる巨人族が生きており、レファイム、エミム、ザムズミム、アナク、アビムなどとよばれていた(申命記2章)。後にダビデがたおしたゴリヤテなどもアビム人のひとりだったのだろう。最初カナンを偵察(ていさつ)したイスラエル人たちは彼らの巨体を見てびっくりし、占領(せんりょう)する勇気をなくしてしまった(民数記13章)。その結果、四十年荒野を放浪(ほうろう)しなければならなくなったのである。だが第二世代のイスラエル人たちは鍛(きた)えられ、モーセに率(ひき)いられて戦い、その広大な国を占領することができた。▼私たちも信仰の歩みのなかで、さまざまなことがらの表面だけを見て弱気になることがある。「霊界の巨人族」を見ておびえるのだ。だからいつも神のみことばだけを見、ダビデのように立ち向かっていく信仰が必要である。

朝の露 <勝利は主による>

2024-07-15 | 申命記
「私たちの神、主は彼らを私たちの手に渡された。私たちは彼とその子たちとそのすべての兵を討った。」(申命記2:33新改訳)

ヨルダン川を渡る前、占領戦(せんりょうせん)はすでに始まった。しかしただ無目的(むもくてき)にたたかったのではなく、神が占領(せんりょう)すべき地を定め、それに従ってモーセたちは戦闘(せんとう)を開始したのである。具体的にはアモリ人の土地だけを征服することがゆるされ、エドム人、モアブ人、アンモン人の土地をうばうことは禁じられた。それは彼らがイスラエルと親戚(しんせき)関係にあったからだ。▼もうひとつ大切なのは、モーセが戦いに勝った原因を自分たちの強さに帰(き)していないことである。「主は彼らを私たちの手に渡された」と、どこまでも主のおかげで勝ったと記している。これがたいせつなのだ。▼異邦帝国の戦勝碑文(せんしょうひぶん)が発掘(はっくつ)されるが、そこには王の偉大さについての賛辞(さんじ)が記され、全能の神への賛辞はない。偶像や王をほめたたえてもすべてはむなしいことを過去の歴史は物語る。私たちも人を賛美してはならない。どこまでもすべての栄光を主に帰すべきである。

朝の露 <主が戦われる>

2024-07-11 | 申命記
「あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主があなたがたのために戦われる。エジプトで、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったのと同じように。」(申命記1:30新改訳)

申命記は出エジプトから四十年目、モーセが神のみこころを改めてイスラエル人に語った貴重な書である。当時、第一世代の人々(二〇歳以上)は死に、それ以後に生まれた人もふくめた第二世代になっており、彼らに民族の歴史を教える必要もあったからだ。▼主イエスは荒野で四十日間断食し、弱さの極のなかで悪魔の執拗(しつよう)な誘惑をお受けになった。周知のとおり、三回とも神のことばを用いて悪魔を撃退されたのだが、そこで用いられたことばはすべて申命記に記されたものであった。これは注釈家(ちゅうしゃくか)が「イエスは申命記を愛読しておられた」というようなものでなく、申命記が主イエスの心そのものであったからである。そこで私たちも本書を、「あたかもキリストの語りかけを今ここで聞いているように」読むべきである。そうすれば天からのパンにより、霊魂が満ち足りる経験をするであろう。▼「主があなたがたのために戦われる」は、クリスチャン生涯の柱であり、結論である。かつてアラムの大軍勢がエリシャのいた町ドタンを包囲したときがあった。早朝、召使いが起きてみると、見渡す限りアラム軍ではないか。彼は驚愕してエリシャに告げたが、彼は少しも驚かず、「主よ、この若者の目を開き給え」と祈った。すると召使いの目に突然見えたのは、火の戦車と火の馬がドタンを取り巻いている光景であった。▼不信仰と恐怖は天の光景を見えなくしてしまう。私たちもみことばの約束を忘れ、目の前の有様にとらわれるなら、霊的盲目になることをおぼえるべきである。