しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <栄光で満たす>

2023-07-24 | ハガイ書
「わたしはすべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。ー万軍の主のことばー」(ハガイ2:7新改訳)

ヘブル書にはハガイ書からの引用として「もう一度、わたしは、地だけではなく天も揺り動かす」(ヘブル12:26同)とある。これは再臨によって神の国が出現する預言だが、「わたしはこの宮を栄光で満たす」は主イエスが人の子としてエルサレム神殿に来られたことではないか、と思う。というのは、ハガイの預言によって完成したゼルバベル神殿は、その後ヘロデにより改修(かいしゅう)され、豪華(ごうか)になったが、その神殿に現れたのが人の子イエス・キリストだったからである。▼神殿がどれだけ改修され、壮麗(そうれい)になったとしても建物だけでは意味がない。そこに神の子イエスが来られたとき、はじめて「わたしはこの宮を栄光で満たす」との預言が成就したのだ。パリサイ人や指導者たちが、その真相に目が開かれていたなら、と思う。だが、彼らには霊の真相が見えず、主をナザレ人とあなどり、十字架に追いやったのであった。▼やがて主が地上にふたたび来られ、再建されたエルサレム神殿に平和の王として着座されると、人類史上はじめての恒久平和(こうきゅうへいわ)が実現するであろう。その時初めて、エルサレムの神殿は名実ともに栄光にかがやく神殿となる。しかし今、救われ、新生したキリスト者の内には神の聖霊が宿っておられ、エルサレム神殿が本質的に実現しているのである。これは信じられないほどすばらしい恩寵(おんちょう)の実現といえる。「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27同)

朝の露 <預言者ハガイの声>

2023-07-20 | ハガイ書
「シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者すべては、彼らの神、主が預言者ハガイを遣わされたとき、彼らの神、主の御声と、ハガイの声に聞き従った。民は主の前で恐れた。」(ハガイ1:12新改訳)

ユダヤ人たちはキュロス王の命令を受け、喜びのうちに聖地に帰り、まもなく神殿の再建工事(さいけんこうじ)を始めた(→エズラ記三8)。ところが現地人たちはこれに反対し、クロスに代わったアルタクセルクセス王に訴え、その命令が出たため、力づくで工事を中止させた(→エズラ記4:24)。このためユダヤ人も意欲をなくし、十数年間も工事は中断したままとなったのである。▼この時立ち上がったのが、ハガイとゼカリヤという二人の預言者であった。とくにハガイは主の御名をもって民によびかけ、神殿の工事を再開せよと迫った。この叱咤激励(しったげきれい)を受け、総督(そうとく)と大祭司、帰還(きかん)した民はその霊を奮(ふる)い立たせられたのだった。▼ハガイを見ていると、預言者の使命と働きがいかに重要か、よくわかる。人の最も内奥(ないおう)にある霊を、神の名によって奮い立たせるからだ。ちなみにバビロン捕囚以後に活動した預言者は、ハガイ、ゼカリヤ、マラキの三人である。彼らと祭司エズラ、総督ネヘミヤの主にある努力がなかったら、ユダヤ民族は聖地で存続できなかった可能性がある。そうすれば救い主キリストがダビデの子孫として生まれるという預言も成就しなかったわけで、新約聖書は生まれなかっただろう。▼神の力はこの人々を用い、神殿を再建させ、そこに神の子がおいでになった。ダビデの子孫、ヨセフと処女マリアを通してであった。歴史を進める神の力、知恵、摂理の御手は偉大であり、不思議であり、みごとである。私たちは賛嘆の声をあげるしかない。太平洋をつらぬく黒潮のように、またナイアガラの瀑布のように、雄大で荘厳な救いのご計画は昨日も今日も、明日も天地宇宙を新しい永遠の世界に向けて流れていく。その中で、私たちも救われ、極小の木の葉のような存在でありながら、力強い潮の流れに乗せられて、運ばれているとは嬉しいかぎりではないか。まもなく皆でいっせいに声を上げるときが来るであろう。「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。」(黙示録19:6,7同)


朝の露 ハガイ書2章 <無いに等しい宮>

2019-01-02 | ハガイ書

灯花「あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。」(ハガイ2:3新改訳)

聖地に帰還した人々の中には、70年前のソロモン神殿を見た人々もいた。今や高齢者となった彼らの目に映ったのは、荒れ果てた神殿境内、焼け焦げた石のみであった。神殿再建のため土台石が据えられたとき、あまりのみすぼらしさに彼らは泣いたが、その気持ちがわかる(エズラ3:12同)。▼しかし泣いてばかりはいられない。いかに粗末であっても前を向いて進まなければならない時が来ていた。宮を建てれば、礼拝儀式が復興する。それは信仰の復興につながり、ユダヤ民族がもう一度、信仰の共同体としてスタートできるのだ。かくて神との契約が確立し、ダビデの子孫としてお出でになるキリストを迎える準備が整うのである。このときから約500年後、幼子イエスがヨセフ夫妻に携えられ、この宮に来られたのであった。◆神殿の価値は大きさや豪華さにあるのではない。人となって来られたイエス・キリストがそこにおられる、という真臨在の事実にある。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(ヨハネ2:19同)と主が言われたとき、ユダヤ人たちは笑い、軽蔑(けいべつ)した。彼等には豪華そのもののヘロデ神殿しか目に入らなかったのである。私たちが霊的盲目の状態にあるとき、罪を負い、みすぼらしいナザレ人としておいでになった神の子の謙卑の御姿は見えない。◆その御謙遜が天地宇宙を照らし、そこを満たし、御使いや被造物が賛美している事実がまったく見えないのである。科学者たちが高性能の望遠鏡で100億光年の彼方まで一生懸命ながめても、暗黒、ガス星雲、岩と塵でできた星、真空空間しか見えないのと似ている。が、自分自身の高ぶりに気がつき、恥じてひざまづき、悔い改めの姿勢をとるとき、イエスが輝くお方であることに目が開かれる。そして礼拝者としての生が始まるのである。◆帰還したユダヤ人たちは、再建した神殿があまりにも粗末なことに泣いた。しかしナザレのイエスはさらにみすぼらしいお方である。人の罪をお受けになり、ほふられる羔となられたからだ。

 


朝の露 ハガイ書1章 <共におられる神>

2019-01-01 | ハガイ書

シクラメン「そのとき、主の使いハガイは、主から使命を受けて、民にこう言った。『わたしは、あなたがたとともにいる。―主の御告げ―。』」(ハガイ1:13新改訳)

バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちは神殿を再建すべく工事を始めたが、現地人たちが妨害し、工事は中止のやむなきに至った(エズラ記四章)。周囲の反対があまりにも強かったので、ユダヤ人たちの信仰は萎縮し、「主の宮を建てる時はまだ来ないのだ」と工事を休んでしまった。それから約15年、預言者ハガイが立ち上がって「工事を再開せよ」と民を激励したのが本書である。▼帰還者たちにとり、たしかに状況はきびしかった。だが、異邦人の中で細々と暮らしていればいつかは呑み込まれ、神の民としての旗印は消滅してしまう。神殿を再建し、信仰の旗を高く掲げよ、神は私たちと共におられるではないか、とハガイは預言したのであった。▼日本の教会も、状況はよく似ている。不信仰と偶像文化の大海に浮かぶ小島のように、私たちは細々と信仰生活を続けて行かなければならない。長いものに巻かれよとばかり、妥協すればどんなに楽か、という誘惑が常にある。しかし私たちの地上でのあり方には「永遠」がかかっていることを忘れるべきではない。聖書は孤独の中で信仰の戦いをつらぬいた人々を目の前に見せてくれる。アブラハム、モーセ、ダビデ、王国時代の預言者たち、新約でいえば洗礼者ヨハネ、使徒パウロなどがその筆頭であろう。だが私たちの主イエスほど孤独であられたお方がいるだろうか。じつに御国に至る道は細く、孤独の道だ。だがそのような中で、ハガイを通して語られた神は私たちにも「わたしは、あなたがたとともにいる」と語られる。そして天からの力をくださる。▼あのゲッセマネで主が血の汗を流しつつ祈られたときも、「御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。」(ルカ22:43同)。神は必ず必要な力を時に応じ与えられる。心配は無用である。「主が、・・・民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の主の宮に行き、仕事に取りかかった。」(ハガイ1:14同)