しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 詩篇103篇 <主をほめたたえよ>

2017-04-27 | 詩篇

水仙「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:1,2新改訳)

たぶんキリスト者で、この聖句を口ずさんだことのない人はひとりもいないだろう。それほど愛されているのがこの103篇であり、「ほめたたえよ」とのよびかけが初めに3回、終わりの部分に4回、その間に主なる神の恵みと愛が聖山のようにはさまれ、喜びの讃美歌としての形を作っている。▼聖日、私たちは礼拝堂に入り、奏楽とともに起立して天にいます御父と御子をほめたたえる。そのとき地上の教会ではあるが、会衆は天に向かって伸びる階段を目の前にあおぎ、御使いたちがささげる天上の礼拝に加わり、自らも唱和する。▼やがて聖なる言(ふみ)が開かれ、神の愛と恵みが清冽な流れとなって私たちに下って来る。そこに身を浸しつつ、過ぎ越し方の道にどれほど愛が満ちて居たかをおぼえ、満腔の感謝と喜びにあふれてひれ伏すのである。▼みことばが閉じられ、続く賛美と頌栄、再び主をほめたたえる天上の大気が堂を満たす。いのちの実を食し、泉から飲み、こひつじの聖餐にあずかった喜びと満ち足りた安息、我らはこうして再び山を下り、世界に遣わされて行く。▼主を拝し賛美するのに、むずかしい言葉や複雑な思想は必要とされない。静かに振り返れば、人の一生には「主の良くしてくださったこと」が毎日あふれているから・・。ただひとつ、聖霊にうながされつつ持つべきは、自分が塵灰にすぎないことを認める謙遜な心だ。今もケルビムは神の宝座の回りを、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と叫びながらめぐる。彼は二つのつばさで自分の面(おもて)をおおい、もう二つのつばさで自分の足をおおい、残りのふたつで第三の天を飛翔しているのである。