しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <祈ってください>

2022-04-02 | Ⅱテサロニケ

「最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。」(Ⅱテサロニケ3:1新改訳)

パウロは書簡の中で、しばしば「私たちのために祈ってください」と懇請している。彼はテサロニケの教会を産み出した人だから命じてもよかったが、そうしないで祈ってくださいと願った。理由は謙遜にあふれていただけでなく、祈ってもらうことがどんなに大切かを深く知っていたからであった。▼祈りは無力ではない。キリスト者たちが心をひとつにして天におられる大祭司キリストに懇願するとき、神の全能の力は現わされる。それは主ご自身が約束されたことだ。「あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」(マタイ18:19同)▼パウロはその事実を日々体験していた。いのちが何十あっても足りないほど死の危険に満ちた宣教生涯、間一髪のところで危うく助け出された場面が何回あったろうか。ローマ各地の主にある兄弟たちが日夜、彼のため祈りの手を挙げていたからこそ、守られ続けたのであった。おなじように、私たちの地上生涯も、一人のようにみえて一人ではない。いつでも誰かがどこかで祈っていてくれるのである。それは人の意志もあるが、神がそのような祈祷の陣営を作って人材を配置し、囲んでくださっている、というのが真相なのだ。やがて天に行った時、私たちはあまりにも多くの人々が自分のために祈っていたことを知り、おどろくとともに、神の御名を心からほめたたえるにちがいない。

 


朝の露 <滅びの子>

2022-04-01 | Ⅱテサロニケ

「どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。」(Ⅱテサロニケ2:3新改訳)

ここにある不法の者、滅びの子とは反キリスト(またはにせキリストともいわれる)を指している。ある特定の人物である。反キリストの特徴は世界のあらゆる神々を否定し、自分だけが唯一の絶対神だと宣言、再建したエルサレム神殿に座を設けてそこに座る。キリストの真似である。十戒には「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出エジプト記20:3同)とあるが、この「わたし」とは自分のことであると世界に向かって宣言するのだ。▼こうして人類の歴史は、反キリストにおいて罪の頂点に達するであろう。つまり彼は霊的存在者である悪魔の具現化だといってもよい。イエス・キリストの地上再臨直前にこれが起き、人類はみごとに欺かれ、「ついに待ちに待っていた世界の救世主が来た!」と熱狂するであろう。なぜなら彼は誰も真似のできない力あるわざ、偽りのしるしと不思議をして見せるからである。現代社会は急速にそのときに向かって収斂(しゅうれん)しつつある。▼しかし私たちに聖書が与えられているということは、この上ない幸いである。なぜなら主イエスや使徒たちの教えにより、あらかじめこれらを予想し、心備えができるからだ。つまり滅びの子の出現、またはその前の時代を見抜き、恐れる心を取り去り、しっかり準備ができるからである。今のうちから目を覚まし、主イエス・キリストの来臨を祈り深く待ち望んでいよう。

 


朝の露 <栄光を受けるためです>

2022-03-26 | Ⅱテサロニケ

「それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。」(Ⅱテサロニケ1:12新改訳)

テサロニケの信徒たちはパウロたちの福音宣教により、救われ喜びにあふれたが、そのあとが大変だった。ユダヤ人からだけでなく、同胞ギリシア人からもきびしい迫害を受け、苦難の道を歩まなければならなかったのだ。▼しかしパウロは激励する。その苦難に耐え、信仰を持ち続けている姿こそ、あなたがたが神の国にふさわしい者とされた証拠である。なぜなら、やがて主が燃える炎の中に再臨されるとき(7)、彼らに報いとして苦しみとさばきを与え、あなたがたには聖徒にふさわしい栄光を与え給う、私たちの神はそのようなお方だからである(6)。「テサロニケの皆さん、ふさわしい栄光とは何か?といえば、それは復活・栄化を指している、つまり再臨の時にあなたがたのからだが地上の朽ちる姿から、栄光輝く主イエスとまったく同じ姿に変えられるのだ。じつに、このすばらしい恵みが与えられるためにこそ、あなたがたは私たちと苦難を共にしているのです。」

テサロニケ教会の人たちが、今までどのような宗教でも得られなかった救いの喜びを与えられ、聖霊による維新に輝いていたことが、ひしひしと伝わって来る。それは世の人々にはおどろきであり、衝撃だったにちがいない。だから彼らは教会を迫害したのであった。ねたみと反発、また真理を得た人々に対する一種の恐怖が起き、それが迫害に駆り立てる動機になったのであろう。主イエスが弟子たちに語ったおことばが思い出される。▼「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。」(ヨハネ15:18~20同)

 


朝の露 Ⅱテサロニケ3章 <怠惰な生き方>

2019-10-05 | Ⅱテサロニケ

ほおずき「そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」(Ⅱテサロニケ3:12新改訳)

テサロニケ教会の人々は再臨の希望に生きていたが、中には冷静さを失い、仕事もしないで再臨を待ち望む人たちがいたのであろう。使徒はそのような人々に、怠惰な生き方をやめ、落ち着いて仕事に励みなさいと何度も命じている。この章には「怠惰」という語が三度くりかえされている(6、7、11)が、熱心な再臨信仰を持っていれば地上での仕事をなまけても良い、ということにはならない。むしろその反対で、御国を待ち望む信仰者は、この世の人々の前にも勤勉で真面目な良心を持つ者として、証しを立てる義務がある。▼地上での富を忠実に管理しない人に、神はどうして永遠の富をまかせるであろう。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい」(ローマ12:11,12同)とあるが、キリスト者は「楽をして金だけ儲けたい」という世の風潮と正反対の生き方をすべきである。◆いつも感動するのだが、パウロの宣教には頭が下がる思いだ。彼は「人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました」(Ⅱテサロニケ3:8)と証ししている。故郷タルソから遠く離れたヨーロッパに初めて足を踏み入れ、慣れないマケドニアの国で、仕事を捜すだけでも容易ではなかったはず。たぶん夜昼働いてもアルバイト程度で、大した収入はなかったろうし、からだは疲れ切っていただろう。そんな状態で寸暇を惜しんで説教し、ユダヤ人と論争し、異教徒の妨害と種々の攻撃に絶えながら、休む暇もなく宣教の働きを続けたのであった。「だれか弱りて、われ弱らざらんや」との告白の重さよ。◆使徒のうちに燃えた神の火、十字架のことばしか滅びつつある人間を救う方法はない。その火がパウロを走らせた。ギリシャだけではない、私はやがてその先のローマにも行く。いや、その先のイスパニア、地の果てまで行かずにおくものか。恵みの福音を宣べ伝えなければ私はわざわいなのだ。◆おお神様。パウロの内に燃え盛っていた火を、私にもください。

 

 


朝の露 Ⅱテサロニケ2章 <不法の者>

2019-10-04 | Ⅱテサロニケ

菊うすむらさき「不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。」(Ⅱテサロニケ2:4新改訳)

パウロが言う不法の者、滅びの子とは終末に現れる反キリストのことである。彼は世界中の神という神を否定し、「自分こそ永遠にして唯一の神、絶対者である」と宣言するにちがいない。▼主もまた言及された。「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら―読者はよく理解せよ―ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。」(マタイ24:15,16同)▼反キリストが座る「神の宮」とは、あきらかにエルサレム神殿である。そこで冒頭の聖句からわかるのは、やがてエルサレムにユダヤ神殿が再建されるであろう、ということだ。現在、エルサレム問題に世界の関心が集まっているのは、このことを抜きにしては考えられない。もし何かをきっかけに世界情勢が大きく変化し、ユダヤ人たちがエルサレムに神殿を建立することになれば、私たちは最後の備えをすべきであろう。◆パウロは、反キリストが「あらゆる力、偽りのしるしと不思議、また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨む」という(Ⅱテサロニケ2:9,10)。これからの時代、世界規模で想像もできなかった奇蹟や不思議が行われるであろう。天空や大海、地下、いや宇宙空間までがその舞台になるのかもしれない。人々はあまりのすごさにおどろき、それに酔いしれるときがやってくるであろう。「われわれは、全能者と同じだ。もはや他の神など必要としない。」と言いながら・・・。それらが、滅びの序曲とも知らずに。したがって、奇蹟やしるしに自己の信仰を打ち建てていた者は、簡単にだまされてしまうのではないだろうか。◆主イエスはいみじくも仰せられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです」(マタイ12:39,40同)と。全世界が奇蹟としるしに酔い、踊る中、キリストの死と復活以外のなにものも認めず、信じないキリスト者は非難の矢面に立たされ、迫害を受けるであろう。しかしそれこそが、永遠と滅びを分けるしるしなのだ。