しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <御子を持つ者>

2022-09-09 | 第一ヨハネ
「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(Ⅰヨハネ5:12新改訳)
聖書がいうとおり、永遠のいのちはキリストご自身のことだから、この方を信じることなしにそれを所有することは不可能である。ある青年が主イエスのところに来て、「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16同)と尋ねた。彼は目の前におられる方が永遠のいのちそのものであるとは知らず、イエスとは別にいのちが存在すると思っていたのであり、そこが根本的にまちがっていた。▼私たちもおなじで、この青年のように、あるいは不老長寿の秘薬を探した秦の始皇帝のように、イエスと別のところにそれを求めることをしてはならない。主がはっきりと、「まことに、まことに、あなたがたに言います。(わたしを)信じる者は永遠のいのちを持っています」(→ヨハネ6:47同)と言われるからである。▼つまり私たちは、「信仰は信仰、いのちはいのち」と別々に考えやすいが、御子イエスを信じる信仰と永遠のいのちは同時に起きることで、両者は切り離せない関係にあることを知らなければならない。もしだれかが「主よ、あなたを信じます」と心から告白したとき、その人には永遠のいのちが宿っており、時間差はない。両者は同一の体験として把握されるのである。誰でも主イエスを救い主と信じるなら、「私は今や永遠のいのちを与えられ、それを所有している」との自覚、確信がかならず生じるであろう。いのちとそういうものだからだ。これは本当にすばらしいことである。肉体が生きていることを感じるにまさって、永遠の生命が宿っていることをおぼえる喜びほど幸いなものはない。

私は60年前、教会に行き、主を信じたが、人生がすっかり変わってしまった。すなわち、言うに言えないふしぎな喜びが心に宿ったのであった。それは自分で造ろうとして造ったものではなく、心を変えようとして変わったのでもなかった。▼イエスを救い主と信じた、と言う以外に、なんら人為的なものはなかったのに、自分でもおどろくほど人格的に変化したのである。それ以来、今日までその喜びと満足が消えたことはない。だから私は「新しいいのち」というものが現実に存在するものであり、それが自分に与えられたことを露ほども疑ったことはないのである。▼救われた喜び、御子を心に宿したことによる満足、もしこれが架空のものであるなら、キリスト教が二千年存続することは不可能であったにちがいない。数えきれない迫害、キリスト教撲滅運動、その他ありとあらゆる反対が加えられてきたにもかかわらず、人々の心に宿った新しいいのちという現実を消すことは誰にもできなかった。これからもできない。新しいいのちの実体であるイエス・キリストが、いまも天に存在しておられ、同時に信仰者の心におられるからである。


朝の露 <ここに愛がある>

2022-09-03 | 第一ヨハネ
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10新改訳)
十字架の前に立っていた百人隊長は、イエスの最後を見て心がゆさぶられたのだろう、思わず、「ほんとうにこの人は神の子であった」と言った(マタイ27:54、マルコ15:39)。彼は今まで見たことがなかった「神の愛」をそこで目の当たりにしたのである。▼姦淫の現場で捕らわれた女性、サマリアの一婦人、エリコのザアカイ、生まれつきの盲目を癒やされた人、マグダラのマリアなど、福音書に出て来る数限りない人たちは、主のみもとにやって来て「ここに愛がある」ことを知った人々なのであった。▼この愛はやがて復活栄化となって究極の姿を現わす。すなわちキリストの再臨である。じつに私たちを永遠に朽ちないからだに変貌(へんぼう)させるのは、神の私たちに対する愛にほかならない。そして私たちは、永遠の愛を見て味わい、永遠の交わりのうちに過ごすことになるであろう。ほふられたこひつじ、その御手にある愛の傷あと、かぎりないいつくしみのまなざしを仰ぎながら・・。▼「いったい何がわれわれをキリストの愛から引き離すことができるのか。艱難か、苦悩か、迫害か。それとも飢えか、裸か、危険か、剣か。聖書にも書かれているように、確かに『われわれは神のためにつねに死の危険の中にあり、屠られるのを待つ羊のごとく見られている』(詩篇44:22)。しかし、わたしたちを愛して下さった神は、艱難その他のさまざまな試練との戦いにおいて、わたしたちに圧倒的な勝利を与えて下さるのである。わたしはこう確信している。死も生も、天使も権力者も、現在の世界も来るべき世界も、高きにある力も低きにある力も、その他いかなる被造物も、われらの主キリスト・イエスを通して示された神の愛から、われわれを引き離すことは決してできないのだ、と。」(ローマ8:35~39柳生訳)


朝の露 <互いに愛し合うこと>

2022-09-02 | 第一ヨハネ
「私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」(Ⅰヨハネ3:23新改訳)
2022年9月の今、ウクライナで悲惨な戦闘が続いているが、スラブ系の民族どうしでも、愛し合うことがどんなにむずかしいかを示している。▼あの最後の夜、主が弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と命じ(ヨハネ13章)、また使徒パウロがⅠコリント13章で「山を移す信仰があっても、愛がなければ無にひとしい」と断言したこと、そしてここでヨハネが、「兄弟を憎む者はみな人殺しである」(3:15同)と記しているのを見ると、人間にとって最高最大の問題は互いに愛し合うことだ、ということがよくわかる。▼エデンの園を追われてから今日まで、人間が味わって来た苦しみは、要するに「お互いに愛し合えない」という一点に帰結するのだ。人間がこのことに目が開かれ、キリストの十字架のみもとに来れば、本当はすべてが解決する。しかし今なおそうできないし、やがてその結果として破局を迎えてしまう。こうして人間は絶望の極に達したとき、愛そのものであるキリストの再臨を迎えるであろう。

主は「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(マルコ12:31同)と言われ、これよりも重要な命令はほかにない、とも言われた。だが、私たち多くのキリスト者はこれをあまり深く考えない。隣人を自分自身のように愛することを人生最大の重要課題ととらえ、そこにみずからの永遠のいのちがかかっていること、聖書の全聖句がこの一点に集中して私に臨んでいることを、どれほど現実的に意識しているであろうか。永遠の法廷に立ったとき、神はあなたを見つめ、この聖なる期待にあなたはどう答えたのか?とたずねられる。その厳粛さをおぼえながら地上を生きたか?と自問自答するのがキリスト者ではないだろうか。▼そこで私たちは、朝起き出でたとき、主の前にひざまずき、今日自分にとり隣人とはだれか、そして自分自身を愛することと同じ愛をもって愛するとは、具体的になにをどうすることかを、主にたずねるべきである。ゴルゴタの十字架はそのために立っている。それはあなたがただ自己満足するために、慰めに満ちるためにだけ立っているのではない。あなたの周囲に群がっている隣人たちのためにも立っているのである。


朝の露 <今は終わりの時>

2022-08-27 | 第一ヨハネ
「幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。」(Ⅰヨハネ2:18新改訳)
二千年前、ヨハネはすでに「今は終わりの時です」と述べた。とすれば二一世紀の現代はなおさら終わりの時と考えてよいであろう。その兆候(ちょうこう)は「反キリスト」が大ぜい現れることだ、とヨハネは言う。現在の世界人口は当時の何十倍にもおよび、それだけ反キリストの数も大幅に増えていることはたしかだ。私たち福音派が発信するニュースには、「異端的キリスト教に注意せよ」との情報があふれている。▼インターネットなど通信技術が発達拡大するにつれ、巧妙で欺瞞(ぎまん)に満ちた教えが世界を行き交い、だまされて被害に会う人々が各国で増加する一方である(これは宗教だけでなくあらゆる分野に及んでいるが)。ヨハネは呼びかける。まことのキリスト者には聖霊という天よりの聖なる油がとどまっているから、このお方に拠(よ)り頼みなさい、そうすればすべてを正しく判断し、見分けることができる、と。心の目をさまし、祈り深く歩ませていただきたい。

ある農家の方がおもしろいことを言われた。牛に稲わらを与えると美味しそうに食べてくれる。裁断器で細かく切るのだが、稲わらの根本のほうは何となく味や固さがちがうのであろう。どれだけ念入りに混ぜても、牛は舌を使って上手に根本に近い部分の稲わらを分けてしまい、食べないそうである。その巧みさに、感心させられると。▼羊や牛、山羊などの動物は野に放たれると、一日中草を食べている。人は何が楽しいのかといぶかるが、彼らとってはそれが生きることである。たぶんそこで養われるのは草に対する直覚的味覚であろう。▼おなじように、キリスト者は毎日「みことば」を食するとき、「ほんとうの味覚」が養われていく。その味は決して忘れないものとして羊たちを守る。生涯にわたり、聖書を御霊により食べ続けるキリスト者は決してにせものの草にごまかされない。人間が巧みに人工的な味付けをし、それを草に混ぜ込んでも、羊たちはすぐに見分けて食べようとしない。▼現代において、私たちを「似て非なる福音」から守るのは、この霊を見分ける力ではないだろうか。もちろんこの力は一朝一夕で身に着くものでなく、日々みことばを謙遜な態度で食することにより培われていくものであろう。▼「しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありません。あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。・・・そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。」(Ⅰヨハネ2:27,28同)


朝の露 <闇の中を歩む>

2022-08-26 | 第一ヨハネ
「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」(Ⅰヨハネ1:6新改訳)
闇の中を歩むとは、「自分が神の前に罪人である、と言いあらわさない生き方」を指す。パリサイ人や律法教師たちは、神の前に自分たちは義人だと主張し、実際は罪の生き方をしているにもかかわらず、主イエスの前でそれを認めなかった。これが「闇の中を歩む」ということである。▼反対に「光の中を歩むとは、自分が罪を犯していることをありのまま認め」、イエス・キリストのあがないにより頼む生き方を指す。それをしたのが、当時の社会で罪深い人々と見なされていた取税人や遊女、病気にかかって苦しんでいた人たちであった。またサマリア人など、汚れた外国人としてユダヤ人正統派から軽べつされていた人たちであった。▼キリストは、自分の本質を隠し、偽善者として生きる人々を非難し、そのままの姿でみもとに来た者たちを受け入れ、神の国はこのような人々のものだと宣言された。闇の中を歩む人々は決して御国に入ることはできない。今もそうである。

ダビデは人妻を犯し、その行為をおおい隠すために夫を殺した(Ⅱサムエル11章以下)。彼は預言者ナタンにより、罪を指摘されるまでなにくわぬ顔をしていたが、実際は心で苦しんでいたことが彼の詩篇から想像できる。「私が黙っていたとき 私の骨は疲れきり 私は一日中うめきました。昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり 骨の髄さえ 夏の日照りで乾ききったからです」(詩32:3,4同)とあり、「まことに 私は自分の背きを知っています。私の罪は いつも私の目の前にあります」(詩51:3同)とも告白している。思うに、ゲヘナの火、よみにおける苦しみとは、自分がなした罪がいつも眼前に置かれ、良心の呵責が永遠に続く世界ではないだろうか。▼人の罪は、ただキリストが十字架に流された血潮によってのみゆるされる。ただそれだけが、神のお心の中から、人の犯した罪の行為を消し去ることができるのだ。何万年の時間も、莫大な富や犠牲も、神のお心にある記憶を消すことはない。永遠にないのである。「父よ、彼をおゆるしください。わたしの流す血潮により」とのイエスの懇願だけが、御父の心から人の罪を消す「なだめのそなえもの」なのである。