しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

聖日の朝に <恵みはあなたに十分>

2024-01-28 | Ⅰテサロニケ
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。」(Ⅱコリント12:9新改訳)
リビング・バイブル訳は下線部分を「わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか」と訳している。パウロは肉体に「一つのトゲ」を与えられていた。それはなんらかの病気ではなかったかと言われている。キリストの全き福音を伝える者として、このことをつらく感じていた使徒は、「どうかこれを治してください」と三度も主にお願いした、と記されている。しかし返って来た答えはNO、であり、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである、だった。▼私たちは信仰生活にあって、主が共におられるなら、この病気も、あの問題も、いまかかえている悩みも、すべて解決するはずだと思い、祈り求めることが多いのではなかろうか。だがそれは、真理の本質から私たちの信仰をそらしてしまう傾向を持つ、つまり御利益信仰に堕する可能性をかかえている。ウェスレーは臨終の床で「人間にとり、もっともすばらしいことは、神が共におられることだ」と述べたそうである。イエス・キリストは別名をインマヌエルというが、これこそがキリスト者の最大幸福のみなもとでなければならない。▼試練から救い出す、難病をいやす、なにかの大問題から解き放つのは、たしかにすばらしいことだが、それよりはるかに尊いのは、キリストが私とともにおられることである。なぜなら、前者はそれが起きれば過ぎ去ってしまう一過性の事実だが、インマヌエルは永遠に私たちを活かし続ける愛の至宝だからだ。この至宝を見失わせるならば、癒やしや問題の解決は、むしろ無い方がよい。

朝の露 <いつも喜んで祈り、すべてが感謝>

2022-03-25 | Ⅰテサロニケ

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16~18新改訳)

この聖句はキリスト者生活の大黒柱である。ある人は、「きよめられた信仰者の生活を一言で表わせば、このみことばになる」と言った。▼たしかにそのとおりだと思う。いかなる苦難や悲劇が襲って来ても、ヨブのように感謝ができ、うち続く牢獄生活のなかにあっても「喜びの書簡」といわれたピリピ書を記したパウロのような心境であれば、その人の聖化は本物といえよう。ではどうすればよいのか。端的に言うなら謙遜の谷間に下りて行くことだ。なぜなら、謙遜こそは悪魔と真逆の性質、人となられた御子イエスの心に満ちていたものだからである。御霊は私たちの心に昼も夜も主イエスの謙遜と従順に満ちたご生涯を語り続け、示し続けておられる。感動をもってそれを見つめ味わって行くとき、私たちの内に、いつのまにか御子のご謙遜と従順が形づくられて行き、悪魔の性質から自由にされている自分を発見するであろう。

昔は、とてもわがままな亭主がおり、夕食に嫌いな料理が出たので「こんなもの食えるか!」と妻の目の前でちゃぶ台をひっくり返したという。もちろん乗っていた料理はめちゃめちゃになった。亭主関白がまかり通った時代には、時々あったことだという。▼しかし「こんなもの食えるか」という言葉が、妻や子どもたちの前ならともかく、神の前で出るとき、その姿はひじょうにみにくいものとなる。至誠至愛の天父が人生のすべてを配剤し、愛の御計画のもとにプレゼントされるのが人の毎日なのに、感謝して受けることをしない。都合のよいことは感謝して受けるが、反対に見えることは受け取らない。はなはだしいときには神様に文句を言い、注文をつける。これは神に向かって「ちゃぶ台をひっくり返す」こととおなじではないだろうか。▼私たちキリスト者が、どんな理由があれ、喜べない、祈れない、感謝できない、ということが実は大きな問題である。傲慢という表現がいやというなら、ふてくされている状態といえようか。あの人類最初の息子カインは、ささげものに対する「神の応答」が気にいらず、ふてくされた(創世記4章)。それが歴史上最初の兄弟殺しとなったことは知るとおりである。だから日々のデボーションにおいて、Ⅰテサロニケ5:16~18が自分から遠い状態に思える時こそ、神の前にひざまずいて「私を砕き、取り扱ってください」と、ありのまま祈るべきではないだろうか。

 


朝の露 <聖なる者であれ>

2022-03-19 | Ⅰテサロニケ

「ですから、この警告を拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたにご自分の聖霊を与えてくださる神を拒むのです。」(Ⅰテサロニケ4:8新改訳)

パウロはここでテサロニケの信徒たちに厳粛な警告を下す。「キリスト者はこの世の人のように平気で欲望のままに歩んではならない。特に性道徳の面でそうでありなさい」と・・。▼それでは私たちは、恐ろしいほど道徳の乱れている今の社会において、どうすれば神の潔きを守ることができるのだろうか。この質問に対し、使徒は、キリスト者の内に与えられたものは神ご自身の本質と同じ、聖なる霊にほかならない、その事実のたとえようもない価値を心から受け止めることだと主張する。天におられる全能の神の周囲はかぎりなく聖であり、ケルビムが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能の神」と、昼も夜も叫びながら飛翔(ひしょう)している。千々万々の御使いたちが、神の聖をほめたたえ、賛美は全天地に満ちている。永遠から永遠までそうなのだ。▼御聖霊がキリスト者の内に住まわれたというのは、第三の天に満ちている聖臨在の大気がそのまま心を満たしているということにほかならない。考えてみれば、なんとおごそかな事実だろう。この自覚をもって生きるのが私たちキリスト者であるべきなのである。

パウロの世界宣教により、ローマ各地に異邦人を中心とする教会が次々に生まれて行ったが、彼がいちばん心を痛めたのは淫行の問題であった。それは各書簡の中に取り上げられていることを見てもよくわかる。▼ローマ1章では、たぶんアジアやマケドニア、ギリシアで行われていた淫乱の様子が書かれ、コリント書では教会の中でさえとんでもない不道徳が発生していたこと、などが証明である。また黙示録ではアジアの七つの教会のうち、ペルガモン、ティアティラ教会が淫行の罪を非難されている。主の再臨を待ち望む教会でさえこのように乱れていたことを思うと、21世紀の現代はなおさらではないだろうか。▼AD50年ごろ、エルサレム教会で最初にもたれた教会会議においては、異邦人の教会に送る決議文が制定された。すなわちそれは、「聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けることです」(使徒15:29同)というものであった。つまり決議文のうちにある4項目の一つが淫行問題だったことがわかる。おそらくこの4項目は一つに結びついていたのだろう。異邦人を表す代名詞的な表現であったことが想像される。▼現代の異邦人教会は、二千年前に最初の教会会議で制定されたこの決議のもとに置かれていることを銘記すべきである。日本に生きる私たちキリスト者が、一個人は言うに及ばず、夫婦として、一家庭として淫行に打ち勝ち、聖きを守ることは、日本の教会全体を守り、ひいては世界の公同教会を守ることにつながっていく、そのことを忘れてはならない。御聖霊の力と助けをいただいて、ぜひそうしようではないか。

 


朝の露 <苦難にあう>

2022-03-18 | Ⅰテサロニケ

「あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。」(Ⅰテサロニケ3:4新改訳)

パウロたちのテサロニケ伝道は、使徒一七章に記されている。大勢のギリシア人たちが信じた一方、「ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた」(使徒17:5同)のであった。そのままではいのちが危ないため、弟子たちは夜間、パウロとシラスを次の町ベレアに送り出した。たぶんその後、信仰を持ったギリシア人たちは町の人々からひどい迫害を受け、苦しめられたにちがいない。「彼ら(ユダヤにいるキリスト者たち)がユダヤ人たちに苦しめられたように、あなたがたも自分の同胞に苦しめられたからです」(Ⅰテサロニケ2:14同)とあることからそれがわかる。▼だれでも本当にイエスを救い主と信じるなら、世はそのままにしておかない。今まで仲良くやって来た人たちまでも、手のひらを返したように迫害を加え始める場合がある。だがそれこそが、神の子供とされた証しなのだ。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はおなじように迫害したのです。」(マタイ5:11,12同)

 


朝の露 <神のことばと人間のことば>

2022-03-12 | Ⅰテサロニケ

「こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」(Ⅰテサロニケ2:13新改訳)

私たちにとって最大の幸福は、「聖書は神のことば」と信じられたことにある。なぜなら、そのこと自体、自分の力によるのでなく、聖霊の感動によってもたらされた奇蹟にほかならないからだ。▼日本は書物の国といわれるほど本がたくさんある(電子化された本も含め)。識字率が高いのはこのためであろうし、文化水準も低くはない。だが半面マイナス面もあると思う。なぜなら書物に埋もれていると、聖書はかぎりなくある本の中の一冊にすぎない、と考えるからである。▼しかしほんとうは、聖書とそこに記された福音だけが人にとって永遠に大切なもの、宝の中の宝である。テサロニケの信者たちはパウロの伝えた福音をそう信じ、それまで頼っていた世の中の神々を捨ててしまった。救いの喜びはそれほどのものだったのである。

主は仰せられた、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(マルコ13:31同)と・・。天地が消え去るとは、人間が歴史の中で築き上げてきたあらゆる事物が消滅することを意味する。そのときは、具体的にいえば、黙示録にある最後の審判の日である。「また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。」(黙示録20:11同)▼そしてそこに、ほんとうの本が出現する。「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。・・・いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(黙示録20:12~15同)▼数々の書物とは、イエス・キリストが地上でお語りになった福音のことであろう。主は御父の心をそのまま語られたのであるから、数々の書物とは天父の御心が書物として天に存在していることである。私たちが地上で手にしている聖書の本体と思ってよいのである。いずれにせよ、この上なく厳粛な事実である。日本人が何気なく暮らしている生涯の行いには、憲法と法律という網がかぶせられている。これに違反すれば罰せられるのとおなじように、霊魂には「天にある永遠の書物」に記された神の御心の網がかぶせられている。人間は一人残らず、これに従って審判されるときが来る。▼だから与えられた地上の生を、罪と欲のおもむくままに過ごすべきではない。キリストのあがないに感謝し、天父から与えられた愛と恵みを満喫しながら真面目に生きるのが当然なのだ。永遠の悔いを残さないために。