しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <誓願>

2024-07-01 | 民数記
「しかし、もし父がそれを聞いた日に彼女に反対するなら、彼女の誓願、あるいは物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に反対するのであるから、主は彼女を赦される。」(民数記30:5新改訳)

この章は誓願をする場合の規定である。イスラエル人は何かのことについて、主に真剣に求めるとき誓願というかたちで願うことができた。たとえばハンナが子供を与えたまえと祈ったとき、それが容れられて生まれたのがサムエルである(Ⅰサムエル1章)。しかし悲劇も起きた(士師記11章)。そこで人間の本質的弱さを知っておられた主イエスは「人は一切誓ってはならない」と命じられたのである。▼神に完全な誓願をなさったのは、人となられたお方、イエス・キリストだけである。じつに主の御生涯は、御父に対し、「わたしが完全なあがないの供え物になります」と誓われた誓願の実行だったといってよい。そこで私たちはキリストにあって完全な誓願の完成に入れられているので、自分で誓いをする必要がないのである。▼「父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基(もとい)が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。」(ヨハネ17:24同)

さすろう身の頼りとするは 救い主の誓いの言葉
時満ちなば、ふたたび来たり 天つ家に迎えたまわん
流したまいし血潮によりて 罪は洗われ、涙は消され
待ち焦がれし贖い主に 見(まみ)えまつる備えなりぬ
            <新聖歌150-2 詞:Mary L Demarest,1860(UN)>

聖日の朝に <エルサレムの娘たちよ>

2024-06-30 | みことば静想
「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山々に向かって『私たちに向かって「私たちの上に崩れ落ちよ」と言い、丘に向かって「私たちをおおえ」』と言い始めます。生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。」(ルカ23:28~31新改訳)

ムチで打たれ、肉が裂け、血にまみれた背中、いばらのトゲから出て顔を滴り落ちる血の筋、よろめきながら歩くイエスの後ろ姿に大勢の女性たちが泣きながらついて行く。だが主イエスはふり返り、わたしのために泣かなくていい、娘たちよ、自分と子どもたちのために泣きなさい、と言われた。▼主の目には大患難時代、エルサレムに世界の軍隊が押し寄せ、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵巻(ぢごくえまき)となってくり広げられる殺戮(さつりく)の光景が映っていたにちがいない。「世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです」(マタイ24:21同)と弟子たちに語られた主のおことばが実現する日がそれである。ゴルゴタに向かう主イエスの御口から出た言葉は、じつは私たち現代人にも向けられたメッセージであることに、何人の人が気づいているだろう。▼このとき、キリストは全人類が犯した罪に対する神の怒りとのろいを一身に負い、十字架で死のうとしておられた。その苦痛、ゲヘナに焼かれるのに等しい苦しみを味わう神の子羊の胸中を思い見なければならない。▼だが、主はそれさえも忘れるほどの苦難がエルサレムに襲いかかることを悲しんでおられた、というしか表現の言葉がないのである。まさに古今未曾有(ここんみぞう)の苦難、人類史上、後にも先にもない苦しみのとき、それがエルサレムに下る審判の日である。▼人々よ、神の日がそこまで来ていることに目を開きなさい。あなたの永遠の運命が定まるとき、それに対する備えの時間が残りわずかになっていることを。

朝の露 <復活の希望>

2024-06-29 | Ⅰコリント
「もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから』ということになります。」(Ⅰコリント15:32新改訳)

いみじくもパウロは、すでに二千年も前に、現代人の多くが口にする言葉をそっくりそのまま代弁(だいべん)している。というのは、私たちの周囲にいる多くの人々も、「どうせ明日は死ぬかもしれないのだから、好きにしよう」と言っているからだ。▼これは、復活という事実を信じないなら、人間は本当の意味で正しく理性ある生涯を送ることはできない、ということの証明である。優秀な文明を作り出したギリシア人も、死からの復活を信じられなかったが、私たち現代人も(日本人もふくめ)、それと変わらない。だから「あのように立派な人物が」といわれる有名人でさえ、死期が近づくと、うろたえるのである。▼私たちは、ローマの獄中で復活の希望に輝き、殉教していったパウロを、あらためて心に刻(きざ)むべきではないか。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。それから終わりが来ます。」(Ⅰコリント15:20~24同)

朝の露 <愛を追い求めよ>

2024-06-28 | Ⅰコリント
「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」(Ⅰコリント14:1新改訳)

コリントの信者たちは、御霊の賜物を熱心に求めていたが、ともすると、自分の優秀性を人にひけらかすためにしようとする傾向があった。つまり教会の益になるため、また他人を活かすためではなく、自分を誇るためにそうしていたのだ。▼パウロはそれに対し、「愛を求めなさい」と強く命じる。なぜなら、愛はイエス・キリストのご謙遜が現れたもの、最高の啓示だからである。教会は自分を見せるため競争する場ではなく、かえって自己を無にして他者のため仕える世界である。▼あの最後の晩餐(ばんさん)の夜、み父から万物を与えられた主は、何をされたであろうか。自分から弟子たちの前にひざまずき、奴隷(どれい)がするようにひとりひとりの足を洗いたもうたのであった。このおどろくべき謙遜こそ、教会が何にもまさって大切にすべき生き方だ。コリント教会の人々よ、子どものようなあり方をやめ、福音の根底(こんてい)にある神の愛を悟り、それに生きることをもって最高の喜びとしなさい。▼使徒の勧めは今日の教会と貴方への警鐘(けいしょう)でもある。


朝の露 <聖なる祭り>

2024-06-27 | 民数記
「あなたがたは、主への芳ばしい香りとして、全焼のささげ物、すなわち、若い雄牛一頭、雄羊一匹、一歳の雄の子羊七匹を献げよ。それらはあなたがたにとって傷のないものでなければならない。」(民数記29:8新改訳)

ここには、イスラエル人の守るべき大切な祭り、ラッパ祭(1)、あがないの日(7)、仮庵祭(12)に関する規定が記されている。▼こうして見て来ると、前章に記された過ぎ越し祭七週の祭(いわゆるペンテコステ)と合わせ、イスラエル民族は年間を通じて聖なる祭りを続け、そのたびに多くの牛、羊、山羊および穀物などをささげなければならなかったことがわかる。新約の光で見ると、これら諸儀式はイエス・キリストの生涯をあらわしていることがあきらか。▼選民は千年以上、この儀式を守ってきたが、キリストはただ一度だけ御自身を宥(なだ)めの供え物としてささげることによって、この旧約の祭りを永遠に成就し、終了された。信仰によりキリストにつながることができたのは、測り知れない恩寵(おんちょう)である。「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2:3同)