しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <わたしは世の終わりまで>

2023-03-11 | マタイ
「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20新改訳)

これは復活された主イエスが弟子たちに与えた最後の命令で、一般に「大宣教命令」といわれる。▼伝道とは人々に福音を伝えれば、それで終わりというものではない。伝えられたその人が洗礼を受け、生まれ変わり、心からキリストの弟子となって成長していく、そこまで見守り、隣人として必要なことをしていくことだ、と主はおおせられる。▼教会はこの命令に従い、世界各地に福音を伝え、教会を建て、学校や病院、各種のセンターや必要な施設を作って、キリストの弟子たちを一人でも多く輩出(はいしゅつ)するよう、つとめて来た。私たちは自分がどんなに小さくても、与えられた力、賜物(たまもの)を働かせて、大宣教命令をはたす責任がある。というのは、やがて主がおいでになったとき、その活動報告をすることになるからだ。▼私の妻が中学生だった60年前、小さな地方の町で教会もなかったところに育ったが、ある日、学校の門近くにあった古い一軒家に教会の看板がかかげられた。ひとりの女性が下校時にトラクトを配り、それを見た彼女は友だち数人と、初めてもたれた礼拝にいってみたのである。そして聞いた福音を受け入れ、やがて近くの川で洗礼を受けクリスチャンになった。▼やがて献身して牧師となり、私と共に教会に仕えて50年以上になる。あのとき、ひとりの婦人伝道者が田舎に来て伝道を始めなかったら、妻はキリストを知らないまま、今日まで来た可能性、大である。私たちがだれかに手渡す1枚のチラシ、もしくは一通のはがき、それが奇蹟を生むかもしれない。あの子どもが差し出した小さなパンと魚、それが主の手を経たとき、数千人の食べ物になったように・・・。だから、私たちもごく小さなわざでいい、まずできることからさせていただこう。


朝の露 <陶器師の畑を>

2023-03-10 | マタイ
「そこで彼らは相談し、その金で陶器師(とうきし)の畑を買って、異国人のための墓地にした。このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。」(マタイ27:7,8新改訳)

イスカリオテ・ユダは、主が死刑に定められたのを見て後悔し、首をつって死んだ。「そういう人は、生まれて来なければよかったのです」(マタイ26:24同)と主が言われた通りになったのである。思えば彼は銀貨30枚で主を売ったが、それは墓地の代金に相当する金であったことがわかる。▼天地万有の本源、神のひとり子にいます至高者を墓地の値で売ったユダ、そこに彼の罪の計り知れぬ深さがあった。彼は主を売って金を手にしたとき「我にかえり」、自分の大罪をはじめて自覚したのかもしれない。すでに遅かったのだが・・・。▼ユダは後悔したが、悔い改めることはできなかった。後悔と悔改、たった一字違いだがそこには永遠の距離がある、それを私たちは思ったことがあるだろうか。世の中には、自己の働きとその結果を見て後悔する人はたくさんいる。そして打ちひしがれて自殺する人もいるのだ。まことに悲惨(ひさん)である。そこであらためて気がつくのは、神に悔い改めることができる人は、むしろ幸せだという事実だ。そのことはパウロも述べている。「神のみこころに添(そ)った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(Ⅱコリント7:10同)▼私たちは永遠の滅びへ落ちて行ったユダを見るたびに、悔い改めて救いに入れられた幸いを思いたい。

さまよう人々 たちかえりて あめなるみ国の 父を見よや
罪咎(つみとが) 悔(く)やめる心こそは 父より与うる たまものなれ

さまよう人々 たちかえりて 父なるみ神の み前に行き
まことの悔いをば 言いあらわせ 世びとは知らねど 知りたまえり

さまよう人々 たちかえりて 主イエスの みもとに とくひれ伏せ
わが主はあわれみ み手をのべて こぼれる涙を ぬぐいたまわん

さまよう人々 たちかえりて 十字架の上なる イエスを見よや
血潮のしたたる み手をひろげ いのちを受けよと まねきたもう

                                                                <讃美歌239 William Bengo,1812> 


朝の露 <生まれて来なければ>

2023-03-04 | マタイ
「人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」(マタイ26:24新改訳)

神の御子イエスから、「生まれて来なければよかった」と言われる人間がいる、それはこの上なくおそろしい事実である。なぜなら、その人はまちがいなく「永遠の火」に落ちることが定まっているからだ。▼もはや悔い改めも信仰も、その他どんなこともやりなおしができないところに来てしまった人間、しかもユダは、その運命を自分の責任において選択(せんたく)したのであった。ああ、なんという悲劇だろう。主イエスは最後の夜、彼の足をお洗いになったうえ、自分の手でぶどう酒とパンを与えられた。▼ゲッセマネでは「友よ、何のために来たのですか」と、彼の口づけを受け給うた。主は最後の最後までユダを「友よ」とよばれたのに、彼はその愛を拒み、せせら笑い、背を向けて去って行った・・。どこへ?・・・永遠の暗やみの中へ、である。▼「その人は生まれて来ないほうがよかった」、友よ、あなたは、たとえどんなことがあっても、そこまで行ってはいけないのだ!


朝の露 <わたしの兄弟たちに>

2023-03-03 | マタイ
「人の子は、その栄光を帯(お)びてすべての御使(みつか)いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。」(マタイ25:31新改訳)

この章は三つの話からできている。最初にある十人の娘(1~13)は主が再臨されるときにたずさえあげられるキリストのはなよめたち。タラントのたとえ(14~30)はたずさえあげられたキリスト者たちの働きに対する審判(しんぱん)。羊とやぎのたとえ(31以下)は主が地上再臨されたとき、患難(かんなん)時代を生き残った人々が、主の御前に集められて受ける審判を指すと思われる。▼三つ目の審判は、主が「これらのわたしの兄弟たち」と呼んでおられることからみて、患難時代に生き残った人々が、キリストを信じた人たちに対し、どのような態度をとったかと言うことに対する審判と思われる。なぜなら反キリストの支配下で言語に絶する迫害を受けるのは、苦しみを覚悟して信仰をもった人たちで、その人たちにどのようにふるまったかが、異邦人たちの審判基準になるのであろう。つまり反キリストを礼拝せず、密(ひそ)かにキリスト者たちを助け、かくまった人々も審判のときあわれみを受け、千年王国の民とされるのだ。▼むろんこの話は、恵みのときといわれる今の時代にも適用されなければならない。世界の多くの地域で、主イエスに対する信仰ゆえに苦しみ、迫害を受けている人々がいる。それらの人々に対し、取りうる手段を用いて助け、祈り、励ますことはこの上なく重要である。主はすべてを天からごらんになっておられるにちがいない。そして審判の座でふさわしい報いを受けることになる。冷たい水一杯でもキリスト者だから、というので与えた行為は決して無駄にならず、それにふさわしい報いを受ける、と主はいわれた。これはなんと大きなはげましであろうか。


朝の露 <戦争や戦争のうわさ>

2023-02-25 | マタイ
「また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対(てきたい)して立ち上がり、あちこちで飢饉(ききん)と地震(じしん)が起こります。」(マタイ24:6,7新改訳)

主イエスが世の終わりについてお語りになったこのことばが、21世紀の今日(こんにち)ぐらい、実感(じっかん)をもって迫(せま)って来ることはなかった。▼もしかするとほんとうに核戦争(かくせんそう)が始まるかもしれない、今や誰もがそう考えるようになった。しかもそれを止められないほど民族紛争(みんぞくふんそう)や国家間の対立が先鋭化(せんえいか)している。武器(ぶき)は日進月歩(にっしんげっぽ)のいきおいで進歩し、背筋(せすじ)が寒くなるような兵器が次から次へと作り出され、戦場(せんじょう)に投入され、とどまるところを知らない。映像や通信技術の発達で、世界の人たちはゲームでも見るように破壊(はかい)の光景(こうけい)をながめ、感覚(かんかく)が次第(しだい)にマヒしてきている。▼だが主は「うろたえてはならない」とおおせられた。聖書のみことばは今なお、不動(ふどう)の岩として私たちの目の前にある。そこに信仰の錨(いかり)をしっかりと下(お)ろそう。