しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 詩篇99篇 <主は聖である>

2017-04-20 | 詩篇

東大阪市「国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。」(詩篇99:3新改訳)

 本篇には三位一体の神を現すかのように、「主は聖である」との宣言が三度くりかえされる(3,5,9節)。また、「ケルビムの上の御座」(1)という表現は、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」(イザヤ6:3同)と叫ぶセラフィム(ケルビムと同一であろう)を連想させる。天使がこのことばを発しながら永遠に叫び続けている光景は、至高の絶対者がいかに聖なるお方であるかを如実に示す。▼キリスト者に御聖霊が内住されるとは、いと聖き第三の天が、人格の内に降って来たことを意味する。私たちはなんとおそれ多い存在にされていることだろう。この天を汚さないために必要なものは、「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む」(同57:15)とのごとく、第一に謙遜、第二に謙遜、第三に謙遜であり、こひつじの血潮が私たちの内に形作る霊魂の姿勢である。▼世界の国々は偶像礼拝や無神論に走り、唯一の神を拝む状態からはほど遠い。それでもご聖霊の御声は、あらゆる歴史の中に凛(りん)と響いていることを忘れてはならない。日本の歴史をみても、聖書とまったく無関係のようだが、高ぶる者は打たれ、世的な繁栄を謳歌(おうか)する人は露のように消えて行った、その例を無数に数えることができる。やはり全能の神は、有史以来、わが国の歴史をも支配統御して来られたのである。特に明治以降、イエス・キリスト以外に救いはないとの福音が明確に伝えられ、日本列島をおおっている。これはじつにすばらしいことだが、拒否するなら、永遠の滅亡しかないのも事実で、そのおごそかさはたとえようもない。どうか、聖日ごとの礼拝をこの上なく大切にし、ひとりでも多くの人が来て「神の足台のもとにひれ伏す」(詩篇99:5同)べく努めようではないか。