しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <すべては神に>

2020-11-05 | Ⅰ歴代誌

「私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために宮を建てようと私たちが準備したこの多くのものすべては、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。」(Ⅰ歴代誌29:16新改訳) 

ダビデの最後の祈りは謙遜そのものだった。傲慢な思いからイスラエルの人口を数え、きびしく打たれた彼は、主が「すべての思いの動機を読み取られ」(Ⅰ歴代誌28:9)、それにふさわしい報いを与える方であると、身をもって体験した。▼自分は主のために壮麗な神殿を建てたい、そう願って力の限り準備した。だが神はそれをするのはあなたの息子であり、あなたは準備を終えたらわたしのもとに来なければならない、と語られたのである。だからソロモンよ、私の意志をついで宮を建てなさい。雄々しくあれ、強くあれ、と。▼ダビデの最後はモーセのそれと似ている。どちらも自分の願いは受け入れられず、後継者(モーセの場合はヨシュア、ダビデの場合はソロモン)にゆだねて地上の生涯を終えたのである。イエス・キリストがすべてとなられるために。◆旧約聖書中、ダビデほど神を愛し、慕い、生涯を幼子のように純な信仰でつらぬいた王はいない。彼は大きな失敗を犯し、きびしく神に撃たれた。すんでのところで滅びに落ちそうにもなった。にもかかわらず神をいちずに求め、心の中をありのまま吐露し、詩篇に歌った。私たちは、今から三千年も前の信仰者であるダビデ王の赤裸々なたましいに、あたかも隣にいる友のようにふれることができる。夜静まり、サムエル書や詩篇に向き合えば、彼の喜び、無邪気で天真爛漫な信仰と踊り、天にたちのぼる祈りの息遣いが聞こえて来る。◆その反対も聞こえる。肉欲に負けて恐ろしい罪にふける姿、神にさばかれ、苦悶の日々を過ごした時の慟哭、あえぐような祈りと呻き、わが子を死なせたときのイスラエル中に聞こえるような悲しみと絶叫、部下のうらぎりに絶句し、孤独の海に沈んだ日々、そしてふしぎにも、そこに来るべきキリストの姿が浮き出て来る生涯。たとえどんな罪に落ち、深淵の底に沈んでも、前王に追われ、荒野を放浪しても、神の憐れみによる臨在は彼とともにあった。選びのふしぎ、臨在の不思議、預言者のふしぎがダビデを包んでいた。そして、なんということであろう。その臨在が私や貴方をも包んでいるのである。「たとえ私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。」(詩篇139:8同)

 

 


朝の露 <後継者ソロモン>

2020-11-04 | Ⅰ歴代誌

「そして、私にこう言われた。『あなたの子ソロモンが、わたしの家とわたしの庭を造る。わたしが彼をわたしの子として選び、わたしが彼の父となるからだ。もし彼が、今日のように、わたしの命令と定めを行おうと固く決心しているなら、わたしは彼の王国をとこしえまでも確立しよう。』」(Ⅰ歴代誌28:6,7新改訳)

ソロモンはダビデの多くの子の中から、正式に後継者として任職された。たぶん緊張と恐れがあったし、父の敬虔な信仰を自分も守って行こうと固く決心していたにちがいない。その彼に与えられた約束はすばらしいものであった。ダビデの信仰に忠実に従うなら、ソロモンの王国をとこしえまでも確立する、つまり地上に神の国を出現させようというのである。▼残念なことに、これは実現しなかった。彼は途中で道をそれてしまい、奢侈放縦(しゃしほうじゅう)と肉欲の道に入り、イスラエルに偶像礼拝をもたらすきっかけを作ったからだ。 しかしこの約束はイエス・キリストによって実現する。このお方こそ本当のダビデの子孫、永遠に平和の王だからである。◆さてダビデはここで「私は主の契約の箱のため、私たちの神の足台のために安息の家を建てる志を持ち、建築の用意をしてきた」(2)と述べている。神殿は神が安息されるところである。少なくともダビデはその目的を持っていたことがわかる。しかし歴史はどうか。イスラエルのエルサレム神殿は戦乱につぐ戦乱で、安息とはほど遠い状態にあったのだ。この事実は、真の安息の家とはイエス・キリストご自身であることを示している。主がヨルダン川で洗礼をほどこされたとき、聖霊が鳩のような姿をして主の上に御下りになったことが記されている。まさに、受肉された神、イエス・キリストこそ神が柔和と愛に満ちた御姿をもって安息することのできる家(神殿)なのであった。◆もし私たちが自らの罪深さをおぼえ、そのためになされた十字架のあがないによりすがるなら、血潮によって罪はゆるされ、神の家であるキリストを宿す者へと変えられる。つまり私たちもまた神が安息される家へと造り変えられるのである。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちは(父、御子、御霊は)その人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23同)◆今や世界は、人類の罪のため泥沼のように混沌としているが、すこしも恐れる必要はない。安息の家の戸口をたたくなら、だれでも迎え入れられるのだから。

 

 


朝の露 <ダビデ軍団>

2020-11-03 | Ⅰ歴代誌

「ツェルヤの子ヨアブが数え始めたが、終わらなかった。しかし、このことで御怒りがイスラエルの上に下った。それでその数はダビデ王の年代記の統計には載らなかった。」(Ⅰ歴代誌27:24新改訳)

ダビデはアブラハムが受けた祝福を継ぐ者となり、イスラエルを天の星のように多くすると示された。言い換えれば、人間的な数え方をしてはならないということである。ところが彼はサタンに誘惑され、自己満足から人口を数えようとしたので、神にきびしくムチ打たれた(歴代誌21:2)。▼その動機を探っていくと、ダビデの心は高ぶりに支配され、誘惑者サタンの罠に陥ろうとしたため、打たれたということがわかる。この事件はイスラエルの歴史記録に三度も言及されている(Ⅱサムエル24章、Ⅰ歴代誌21、27章)ことから見て、重大さが想像できよう。思えば彼の一生は、サウルに苦しみ、バテ・シェバ事件で砕かれ、息子たちや部下の反抗に悩み、低くされる取り扱いの連続であった。それは全き謙遜の御方=ナザレのイエスがダビデの子として出現するために必要なことだったのである。▼神に属する者を、人は数えてはならない。これがダビデ生涯の終わりに示された教訓であり真理であった。ペンテコステの日以来、キリスト教会は世界中に広がり、今も拡大の一途をたどっている。その数と名前、地域、時代と歴史の全貌はだれひとり知らないであろう。それは被造物にすぎない有限な人間が知るべきでないし、知ってはならないことである。神の栄光を汚さないために・・・。けれども、やがて天に召されたとき、私たちは復活の栄光の中ですべての兄弟たちに会うことになる。そこには、想像もできない喜び、驚嘆、神への賛美があるにちがいない。ひとりひとりが生涯にあって織りなした主との愛の交わりが、祈りと涙と感謝の深さを持ち、宝石のように輝く衣となってはなよめを包んでいる。天のエルサレムはその結晶化した宝石の都なのだ。パウロが「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです」(ピリピ1:23同)と吐露したのは当然であった。▼だから私たちは、この世の財を数えたり、成果や結んだ実を数えて誇ったりしてはならない。また自分に向かって称賛し、ほめちぎってくるような勢力や人々から遠ざかるべきである。愚かで、微小で、足りないしもべとして、キリストの前にいつもひざまづくのが唯一、ふさわしいあり方なのである。「しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:9,10同)

 


朝の露 <宝物倉>

2020-11-02 | Ⅰ歴代誌

「すべて予見者サムエル、キシュの子サウル、ネルの子アブネル、ツェルヤの子ヨアブが聖別した物、すなわち、すべての聖なるささげ物は、シェロミテとその兄弟たちに委ねられた。」(Ⅰ歴代誌26:28新改訳)

エルサレムに設けられた宝物倉には、各時代の指導者や預言者たちがささげた貴重品が大切に保管された。そしてダビデの任命により、エルサレムの各門には勇者たちが配属され、その中に倉が建ち、管理者が定められてささげ物を守った、とある。▼シェロミテはモーセの子孫で、神をおそれる敬虔な人だったのだろう。最高に価値ある品々は彼ら一族が管理するよう命じられた。かくてソロモンの栄華といわれる最盛期に、エルサレムは世界に冠たる宝の都となったわけである。が、これらはいかに豪華といっても、過ぎ行く地上の物質にすぎず、一輪の野百合にも及ばないはかない物だと主は仰せられた。ほんとうの宝物は神の愛と知恵の結晶=イエス・キリストであり、聖霊によってこのお方を内に宿したキリスト者である。「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」(コロサイ2:3同)▼人となって世に来られたナザレのイエスは、父なる神が特に聖別して世に遣わされた「ささげもの」である。ユダヤ人の肉眼で眺めれば、ガリラヤから出たふつうの人にすぎなかったが、霊眼の開けたバプテスマのヨハネからみると、主イエスからはまばゆいばかりに天の栄光が放射されていた。それは御父がたった一つの目的のため聖別し給うた、全宇宙も及ばぬ宝物中の宝物だった。すなわち、唯一無比の「宥めのそなえもの」だったのである。▼罪人にすぎない私たちもキリストの贖いにより救われ、生まれ変わり、聖なる御霊を受けると、栄光に満ちたイエスの御姿に目が開かれる。そしておどろき、雅歌のはなよめのように叫ばざるをえなくなるのである。「わが愛する者は白くかつ紅(くれない)にして萬人の上に越ゆ」(雅歌5:10文語)と。▼エルサレムに満ちあふれた宝物は、元をただせば、歴代の支配者たちが征服戦で得た戦利品、あるいは略奪物にすぎなかった。だから国力が衰退したとき、周りの国々から略奪し返され、すべてがなくなったのである。イエス・キリストはそのような御方ではない。神のふところに居ます至宝のなかの至宝であり、そのいのちは全天全地の罪と呪いを完全に贖う無限の価値を秘めており、それがゴルゴタで注ぎ出され、信じるすべての人たちを贖ったのである。雅歌書のはなよめは、愛する花婿のすべてに酔った。私たちは内にお出でになられた救い主の愛と栄光の輝きに「酔っている」であろうか。

 

 


朝の露 <アサフとヘマンとエドトン>

2020-10-29 | Ⅰ歴代誌

「また、ダビデと軍の長たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、竪琴と琴とシンバルに合わせて預言する者とした。仕事に就いた者の数は、その奉仕にしたがって次のとおりである。」(Ⅰ歴代誌25:1新改訳) 

楽器を使って神を賛美することは、モーセの頃から行われていたのであろう。「そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た」(出エジプト記15:20同)と記されている。▼ダビデはレビ人たちを組織化し、専門の聖歌隊を作って神を賛美させた。その組は祭司たちと同じ二四組とあるから、ペアを組んで奉仕に当たったわけである。▼エドトンは詩篇の三九、六二、七七にある表題で指揮者エドトンと記されていることから、ダビデが詠んだ詩に曲をつけ、聖歌隊の指揮者として奉仕したと思われる。いずれにしても、王の信仰と霊性が反映された礼拝の豊かさがしのばれる。ソロモン以降、この豊かさは次第に失われ、イスラエルは衰退の道をたどった。◆アサフはダビデが契約の箱をエルサレムに運び上げたとき、その行列の先頭に立ち、シンバルを響かせ、主をほめたたえる歌を歌った。ダビデはそれに合わせて喜びながら踊ったわけである。聖櫃がエルサレムに据えられると、その前で主を賛美する神殿聖歌隊の長としてアサフが任命された。「その日、その時、初めてダビデはアサフとその兄弟たちを任命して、このように主に感謝をささげさせた。」(Ⅰ歴代誌16:7同)◆以後、アサフの家系は神殿聖歌隊を世襲することになり、500年以上たってユダ王国がバビロン捕囚となり、その後に帰還したユダヤ人たちの中にアサフ族もいたことが知られる。彼らは苦難の歴史の中でも、神をほめたたえ続けたのであった。キリスト教会は主をこよなく愛し慕ったダビデの心と、それに合わせて主を賛美したアサフたちの信仰を受け継いだ事実を忘れてはならない。私たちが日ごとに賛美する聖歌や讃美歌には、彼らの喜びの調べが御霊による川として流れている。しかも驚くべきことに、神を知らず、霊的暗黒の中を歩んでいた私たち異邦人が、ペンテコステ以後は、この賛美の群れに加えられた。まさに驚天動地のことが起こっているのである。◆そしてついには、あらゆる被造物が全天全地に歌声を響かせる一大聖歌隊として、天の宝座を取り囲むことになる。「また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。『御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。』」(黙示録5:13同)