しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 Ⅰテモテ5章 <道を踏みはずす>

2017-04-21 | Ⅰテモテ

アンスリウム「というのは、すでに、道を踏みはずし、サタンのあとについて行った者があるからです。」(Ⅰテモテ5:15新改訳)

このことばは前節からの続きで、若いやもめについての言及である。当時、夫に先立たれた女性はたちまち経済的苦境に陥ったので、教会は会員となっているやもめたちを扶助したのだが、問題も少なくなかった。▼パウロはここで、「サタンのあとについて行った」やもめもいる、と述べるが、具体的にどのようなことかは説明しない。だが前後のことばからみると、脱線して異端に走ったか、後ろ指を指されるような道徳上の問題を起こし、除名処分になったことを指すのかもしれない。▼やもめに限らず、一人のキリスト者が何十年にも及ぶ信仰生涯を終わりまで真っすぐ走り抜くには、いかに多く主の守りを必要とすることだろう。自分は大丈夫などと過信すべきではない。ペンテコステから三分の一世紀を過ぎると、最高の伝道者パウロの周囲でも、ヒメナオ、アレキサンデル(Ⅰテモテ1:20)、デマス(Ⅱテモテ4:10)などといった、「道を踏みはずす」人々が出てきたことがわかる。油断せず信仰の目をさましていよう。▼私は最近ある方からメールをいただいた。40年ほど前、洗礼を授けた兄弟である。今も夫婦で忠実に教会生活を守り、聖書を学び、ディボーションを欠かさないとの証しが、つつましい筆遣いで記されていて、思わず胸があつくなり、主に感謝の祈りをささげた。牧師の生涯でこれほど嬉しい便りはなく、いかなる苦労や涙も吹き飛んでしまう。この反対はガラテヤ書のパウロであろう。▼彼は信仰の道を踏みはずしたガラテヤの信徒たちを悲しみ、「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」(ガラテヤ4:19同)と書き送った。霊の産室から痛みと苦痛にあえぐ妊婦パウロの息遣いが聞こえるようだ。いのちがけで産んだ使徒に、もういちど苦しみを与えるとは!・・・導いてくれた人を悲しませるべきではない。