しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <模範となりなさい>

2022-08-12 | 1ペテロ書

「割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(Ⅰペテロ5:3新改訳)
このことばは、ペテロが生きていた初代教会の長老たちに命じたことばである。だが本質的にはあらゆるキリスト者が守るべき勧めであるといえよう。▼主イエスは御父から与えられた十二人の弟子たちを、三年半にわたって文字どおり、「同じ釜の飯を食べながら」訓育された。それは決して高圧的、強制的でなく、深い祈りと御父からのご命令の中、自分の真似をするようにという訓育であった。驚くような奇蹟も、自然界を例にひいた説教も、罪人に向かうやさしい行いも、すべては十二弟子への教育からなされた。▼それでも師をうらぎる者はうらぎった。最期の晩餐のとき、ユダは悪魔にそそのかされ、主を銀三十枚で売り渡したのであった。だが主イエスは怒らず、争わず、従容(しょうよう)と十字架への道を歩まれた。まさに、群れの模範となられた御方はイエス・キリストご自身だったといえる。すべてのキリスト者に、この生き方の真似(まね)をすることが求められている。支配の道ではなく模範の道、高ぶりの生ではなく謙遜の生である。  

①まぶねの中にうぶ声上げ たくみの家に人となりて              
貧しきうれい生くる悩み つぶさになめし この人を見よ
②食するひまもうち忘れて しいたげられし人をたずね
 友なき者の友となりて 心くだきし この人を見よ
③すべてのものを与えしすえ 死のほか何も報いられで
 十字架の上にあげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ
④この人を見よ この人にぞ こよなき愛は現れたる
 この人を見よ この人こそ 人となりたる活ける神なれ
                   <馬槽の中に 新聖歌99 詞:Ko Yuki,1896-1985>  



朝の露 <さばきが神の家から>

2022-08-06 | 1ペテロ書
「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。」(Ⅰペテロ4:17新改訳)
ペテロがここで、5、6、17節と、神のさばきをことさら強調するのはなぜであろう。▼彼は主の公生涯に初めから終わりまで従い、最初の教会設立に深くかかわった者、使徒の第一人者であった。彼はそれだけに厳粛なさばきが行われるのを目の当たりにしたのである。たとえばイスカリオテのユダが主をうらぎり、最後は悲惨な死を遂げたこと(使徒1:18)、アナニアとサッピラが聖霊を欺き、一同の前で急死したこと(使徒五章)、教会に迫害を加えようとしたヘロデ王が虫に食われて息絶えたこと(使徒12:23)などがある。▼もし教会に属する人々にすら峻厳(しゅんげん)なさばきが下るとすれば、やがて全世界に及ぶ神の審判が行われるときは、どれだけ大勢の人々が泣き叫ばなければならないことか。かつて主を否定したが、かろうじて救われたペテロ(→マルコ14章)のことばには、この上ない真剣さがこめられている。私たちは心して耳を傾けなければならない。

同じ12弟子だったペテロとユダ(イスカリオテの)、その運命は永遠の救いと永遠のほろびに分かれた。間一髪と言う言葉があるが、それを地で行ったような二人の運命であった。だから私たちは、神のお選びと救いを軽く考えてはならない。愛と恵みにいます天の父が、その手を差し伸べられたとき、あざ笑ったり、払いのけたりすることをすべきではないのだ。▼あの木曜日の夜、主はご自分でパンをぶどう酒に浸し、それをユダにお与えになった。それは愛とゆるし、招きのしるしだったにちがいない。だが彼は無視したのである。その少し前、主は彼の足をご自分の手で洗われた。この二度にわたる神の子のゆるしとあわれみをユダは拒み、ペテロは主を大祭司の庭で拒んだが、泣きながらも主についていった。二人の行動にはほんのわずかしか差がない、私にはそう思える。しかしふたりは永遠に離れた。▼東京駅で同じホームに並んでいる列車でも、一方は九州に、一方は北海道に行く。ほんの数歩しか違いがないのに、乗り方によって数千キロ隔たるのと似ている。


朝の露 <キリストを主とし>

2022-08-05 | 1ペテロ書
「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(Ⅰペテロ3:15新改訳)
主イエスは人として地上を歩まれたとき、天の父を主とあがめ、ご自分を奴隷のように低くしてお仕えになった。そのことがもっともよく表れたのが、最後の晩餐で十二弟子たちの足をお洗いになったときであろう。なぜなら、主人の足を洗うことはもっとも身分の低い奴隷のする仕事だったからだ。▼ところで、キリスト者はイエスを自分の主と告白する。それは「私はイエス・キリストの奴隷です」と告白するのと同じである。しかも地上生涯のすべてに渡ってその関係は維持されるべきなのだ。ペテロがここで、「心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい」とすすめたのは、あの最後の夜、ひざまずいて弟子たちの足を洗われた主イエスの姿を思い浮かべていたからではないだろうか。▼もし私たちが内なる御霊に導かれ、隣人の足を心から洗う生き方ができたら、大勢の人たちがキリストの愛の何たるかを理解するであろう。ぜひ祈りつつそうさせていただこう。

<ただ主を>
①ただ主をあがめて ただ主につかえん ただ主を頼りて ただ主を仰がん
②主こそ救い主 神の子羊 わが義・わが聖き・わが力なれ
③主こそきよめ主 わが内きよめ みたまのみ神の 住まいとし給う
④主こそいやし主 主を生かしたる 霊をもて 死ぬべきわが身を生かす
⑤主こそ来たるべき 王の王・主の主 わが花むこなれ 我は恋い慕う
{折返}讃えよただ主を 主は救い主・きよめ主・いやし主 王の王・主の主
<新聖歌427 作詞:Albert B.Simpson,1843-1919(UN)>


朝の露 <生ける石として>

2022-07-30 | 1ペテロ書

「あなた方自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」(Ⅰペテロ2:5新改訳)

ペテロの心に示されていたのは、やがて姿を現わす永遠の都エルサレムではなかったろうか。おなじ使徒であるヨハネの描写によれば、それは輝く宝石でできていたが(黙示録二一章)、硬い石ではなく、キリストのはなよめという生ける宝石であった。▼たぶん天のエルサレムとは、すべての時代のはなよめたちの生涯と行い、献身と愛のわざが美しい宝石となって結合した都だと思われる。なぜなら、その行いは結局のところ、内住の御霊によって成し遂げられたものであるから、聖霊ご自身の美であり、輝きなのである。その上、都は神殿そのものでもあり、御父と御子が中心にお住まいになっておられるものだ。だからこそ、そこに住まいする彼女たちは同時に永遠の祭司なのである。「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。」(黙22:3,4同)▼さらに驚くことは、このエルサレムの造営は私たちが生きている現在の地上でなされているのだ。キリスト者の生涯自体が、神殿の実質だとは、あまりにふしぎで信じられないようだが、事実だと私はおもう。たとえばその土台石には主の十二弟子の名が刻まれている。つまり一つには当然ペテロの名もあるに相違ない。それが生ける石であるということは、つまり彼の地上生涯そのものが土台石となっているわけである。このように私たちが毎日ささげる祈りと賛美、感謝と奉仕はすべて祭司のささげものとなってこの都の中心におられる神と子羊の御前を飾る。そのことを思えば、毎日の信仰生活はかぎりない喜びに満たされるではないか。

ペテロについていえば、彼の生涯には多くの失敗もあやまちもあった。主を三度もうらぎった涙の光景もある。もちろん、すばらしい証しのわざもあった。しかしそれらすべてが活ける石として天のエルサレムを飾る宝石になる。▼彼の地上における生涯の一部分だけが宝石ではなく、全部の全部がかがやく土台石であるにちがいない。なぜなら、とてつもない神の恩寵の栄光が光となって都全体を包んでしまうからである。私たちもまた、そのような存在として組み込まれて光を放つ存在になるのだ。だから自らの地上における歩みを決して恥じることなく、弱さも不十分さも、みな主の御手にゆだねながら感謝と賛美に満ちて走り通したいと願うのである。

 


朝の露 <心を引き締め>

2022-07-29 | 1ペテロ書

「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」(Ⅰペテロ1:13新改訳)

イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みとは、言い換えれば、再臨のときに信仰者たちが復活、栄化されることを指している。私たちにとり、これはどんなことにもまさって素晴らしい恵みである。なぜなら、キリストがお出でになったとき、永遠に滅びない復活世界が開始され、そこに入れられる者たちが決定するからである。たとえ今の世でどんなに繁栄して豊かに生きていても、福音を信じて生まれ変わり、御霊と共にきよい生活をしていなければ、御国の門から締め出されるであろう。そこで泣き叫んでも、入る機会は二度と永遠に来ない。使徒パウロもその日を最大の目標にしていた。「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ3:10,11同)▼キリスト者は主の日に起きることをいつも心にとめ、世の快楽や罪深い生き方と決別し、敬虔な再臨待望生活につとめるべきである。

ペテロはここで特徴あることばを用いた。「また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。」(Ⅰペテロ1:17)▼寄留者の特徴は、ある地に住んでいても、一種の「疎外感」を常に抱いていることにある。つまり自分はこの地の者ではなく、別の目的地に向かっている者だ、との感覚をおぼえながら暮らしているのだ。この疎外感は価値観の違いや、生活すべての面においてキリスト者の人格を特徴づけずにおかないものである。そしてそれがまた、非寄留者には違和感を与え、時によっては反発を醸し出す動機になるものでもある。▼しかしペテロはそれを恐れていてはならない、と強調する。なぜなら私たちは、やがて全世界を審判される正義の神の御前に立たなければならないことを知り、その日に備えるために私たちのところに来られたお方・御聖霊とともに歩んでいるからであると‥。そして寄留者として聖なる生活をするところから生じる緊張、摩擦、軋轢、対立の意識こそ、じつは神が教会に期待しておられるものにほかならない。神の国の宣教とはそこから湧き出るメッセージだからであり、世の救いのためにぜひとも必要とされる「鳴り響く鐘の音」だからである。