しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <一人の牧者によって>

2022-05-30 | 伝道者の書

「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの、それらが編纂された書はよく打ち付けられた釘のようなもの。これらは一人の牧者によって与えられた。」(伝道12:11新改訳)

ソロモンは伝道の書を結ぶにあたり、自分が記した知恵のことばは「一人の牧者によって与えられた」ものだと証しする。つまり、彼の作といわれる箴言、伝道者の書、雅歌は自分で考え出したものではなく、神から与えられたもので、過ぎ行く空虚な世界にあって、良く打ち付けられた釘のように固定された真理なのだと。まさに主イエスが「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(マタイ24:35同)と仰せられたとおりである。▼聖書は人間が自分で考え、作り出した書物ではない。人が作った書物は読んでもきりがなく、からだが疲労するだけだが、聖書は人を永遠の救いに入れることができる唯一の書なのだ。ただ一人の牧者イエス・キリスト、すなわち神のことばなる方の作だからである。こう述べて、伝道者ソロモンは最後のことばを書きつける。あらゆる時代のあらゆる人に対する語りかけとして・・。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道12:13同)


朝の露 <風と雨雲を見ている人>

2022-05-26 | 伝道者の書

「風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。」(伝道11:4文語)

社会情勢や人の動きだけを見、それに捕らわれて全能のお方から目を離していると、教会は信仰的な働きができなくなる。▼昔、イスラエル人たちが約束の地を占領する前に偵察隊を遣わしたとき、その人々は見て来たことに心がうばわれ、不信仰な報告をした。聞いたイスラエル人は臆病心を起こし、結果として四〇年荒野をさ迷うはめになった(民数記13、14章)。まさに彼らは全能の神とその約束のことばを見上げず、「カナン人という風と雨雲」を見て怯(おび)えてしまったのだ。▼ほんとうの信仰は、決して見えるところに左右されない。巨大なゴリアテが恐ろしい威力で立ちふさがったとき、神の臨在を信じていたダビデは少しも恐れず立ち向かって行った(Ⅰサムエル17章)。彼だけでなく、旧約の信仰者たちはただ神を信じて困難の道を征服し、神の栄光を現したのである。その彼らが天から私たちを応援しているではないか(ヘブル12:1同)。その理由は、私たちが最終の走者であり、彼らの勝利もそこにかかっているからである。「これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした。神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。」(ヘブル11:39,40同)▼「もっとすぐれたもの」とは、すべての信仰者たちが復活栄化して新しい世界に入れられることを意味する。すなわち神の救いのプログラムがヨハネ黙示録22章まで成就することである。全被造物がどんなにそのときを待っていることであろうか。マラナ・タ

 

 


朝の露 <死んだハエ>

2022-05-25 | 伝道者の書

「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」(伝道10:1新改訳)

高価で純粋な香油であればあるほど、ほんの少しのゴミや虫の死骸などが混入すれば売り物にはならない。それとおなじように、聖書のみことばは「永遠の神の人類に対する語りかけ」である。いわば最高品質の香油のように精製されたもの、否、それどころか主ご自身が「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(ルカ21:23同)と言われたほどのものである。▼だからこそ、黙示録の末尾には、これに何かをつけ加えてはならず、これから何かを削ってはならない、と厳粛(げんしゅく)に警告がなされているわけである「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる」(黙示録22:18,19同)。▼主が弟子たちに説教されたときにも、「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい」(マタイ16:6同)と言われた。彼らは神のことばに自分たちの不信仰な考えを混ぜて解釈し、結果的に聖書の教えをゆがめていたのであった。いわば死んだハエを香油に落とし込んでいたのである。これはすべての時代に、私たち信仰者たちが気をつけなければならないことでもある。パウロもまた、福音の純粋性をそこなう教えを非難し、それに汚されないよう弟子たちを諭した(ガラテヤ5:9同)。


朝の露 <静かなことば>

2022-05-24 | 伝道者の書

「知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれる。」(伝道9:17新改訳)

21世紀の今、主イエスのお声はラウドスピーカーで放送するように絶えず世界に聞こえているわけではない。しかしそれは静かに、広く深く、すべての地域に住む人々に響き、広がり続けている。考えて見ると、この声は世界で最も不思議で偉大なお声である。▼さまざまな有名人たちの声は、一時的に大衆の心をとらえても、永続性はなく、やがて消えて行く。ところが創造主とキリストのお声は、聖霊のお働きによって時代や地域を超えて信じる者たちの心に聞こえ、その生涯を導き、人格を変貌(へんぼう)させる力に満ちている。そのうえ、決して消えることがなく、人間の歴史を統御し、変えて来た。「語らず言わず、その声聞こえざるに、そのひびきは全地にあまねく、そのことばは地のはてにまで及ぶ」(詩19:3,4文語)と詩人が歌ったように・・。▼まことに主なる神の御口から出ることばこそ「知恵のある者の静かなことば」であり、それが受肉して人となった御方こそ、私たちの神・ナザレのイエスである。


朝の露 <悪しき者には幸せがない>

2022-05-23 | 伝道者の書

「悪しき者には幸せがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らが神の御前で恐れないからだ。」(伝道8:13新改訳)

ダビデは姦淫と殺人の罪を犯したとき、日夜良心に責められ苦しんだ。「私が黙っていたとき私の骨は疲れきり 私は一日中うめきました。昼も夜も 御手が私の上に重くのしかかり 骨の髄さえ 夏の日照りで渇ききったからです。」(詩篇32:3,4同)▼人はその心の深い所で、自分が神の前に罪人であることを意識している。だから本当の意味で平安はない。その上、死後も、行く所は神のおられる天と反対の場所なのだから、なんとあわれな存在だろう。この潜在意識が、言うに言えない不安や重荷となり、肉体と精神をふくむさまざまな疾病を引き起こしているといってよいのだ。▼この惨状を見かねた神は、ご自身のひとり子に世の罪を負わせ、なだめの供え物として地上に送られた。だからどんな人でもキリストの十字架を信じ受け入れるなら、永遠の平安と救いを手にすることができる。じつに簡単なことだ。しかも、これは今の世でも来たるべき世界でも奪われない絶対的な平安である。

<あだに世をば過ごし>

①あだに世をば過ごし わが主は我がために 死にしを知らざりき ああカルバリ

②いま罪を示され 震えおののくのみ ただすがるほかなし ああカルバリ

③主にすべてを献げ わが神と仰ぎぬ いざ喜びたたえん ああカルバリ

④父なる神の愛 子なる主の御恵み ここにぞ集まれる ああカルバリ

{折返し}主の恵みは深く 豊かにゆるし給う わが重荷は去れり ああカルバリ!

(新聖歌236 詞:William R.Newell,1868-1956)