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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

聖日の朝に <この二人の息子が>

2025-05-11 | みことば静想
「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばをください。」(マタイ20:21新改訳)

主イエスがまもなくエルサレムで十字架につけられようとしているとき、十二弟子たちの関心は、神の国における自分たちの序列はどうなるのか?ということにしかなかった。ふつうなら、主のお心は悲しみと情けなさでいっぱいになったであろう。▼主は静かに言われた。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は皆に仕える者になりなさい」と。今の世すなわち神の国と無関係の人々の間では、社長、専務、部長、課長という順序ほど重要な関心事はないかもしれない。しかし来たるべき永遠の復活世界では、それらはまったく意味がない。むしろ、すべてが正反対である。▼イエス・キリストは御父のお心を限りなく愛し敬い、その実現のためご自分を差し出し、喜びのうちに地に下り、しもべとして万民に仕え、最後は十字架の死を受け、重罪人たちといっしょに数えられた。太陽の光よりも輝き、燃え渡ったのは謙遜という二文字であった。そして新しい世界に満ちあふれるのも「謙遜」といういのちである。そこに入ることをゆるされた万物は、昼も夜も永遠に御父と御子のご謙遜を賛美し、ほめたたえてやまないであろう。

聖日の朝に <イエスの驚き>

2025-04-13 | みことば静想
「イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。』」(マタイ8:10新改訳)

主はなぜローマ人百人隊長が抱いた信仰にこうも驚かれたのか。ひとつはその謙遜であった。「私はあなた様を自宅にお迎えするような者ではありません。異邦人の一兵士にすぎないのです」との言葉は、主が神の子であるという事実をこの上なく尊んでいた証拠であった。その反対に、選民ユダヤ人は主をナザレの大工と軽蔑(けいべつ)し、けがれた遊女(ゆうじょ)や取税人たちと交わっていると非難(ひなん)したのであった。▼もうひとつは主の御口(みくち)から出るおことばの絶対的権威(ぜったいてきけんい)を知り、信じていたこと。主がいったん仰(おお)せられたことばは「天地が失せてもなくならない神のことばであり、その権威の前にはどんな存在でもひれ伏し、従う」との信仰である。病気であれ死であれ、おことばの前には従わざるを得ないとの確信を、律法も知らないローマ人がどうして知り、信じていたのか。主イエスの驚きはそこにあった。▼ローマ軍の規律はきびしく、上官の命令に違反したときは死が待っていた。その体験から信仰についての理解が生まれたのだろう。一例としてピリピのできごとが思い出される。「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で『自害してはいけない。私たちはみなここにいる』と叫んだ。看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。そして二人を外に連れ出して『先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか』と言った。」(使徒16:25~30同)

聖日の朝に <従順を学び>

2025-03-23 | みことば静想
「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源(みなもと)となり、メルキゼデクの例に倣(なら)い、神によって大祭司と呼ばれました。」(ヘブル5:8~10新改訳)

昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)が詠んだ歌に「金剛石(こんごうせき)も磨(みが)かずば、玉の光は添(そ)わざらむ、人も学びてのちにこそ、まことの徳は現わるれ」というのがある。どんなすばらしい宝石でも原石のままでは輝くことができない。磨かれてこそ美しい光を放つことができる。そのように人は学んでこそ徳を積むことができる、との意味だ。▼キリストは神の子であるのに、人になったとき、さまざまな苦しみを味わうことによって「従順(じゅうじゅん)」を学ばれた。学ぶとは、たんなる知識や情報の習得(しゅうとく)ではない。人生の喜怒哀楽(きどあいらく)を通して父なる神に従うことを、人格全体で体得(たいとく)することである、と私は思う。考えてみれば、御子は本質的に全知全能の神であられるから、学ぶ必要はないはずだった。▼しかし人の姿をとられたとき、神の子にも「学ぶべき科目」が存在したのだ。これはじつにおどろきではないだろうか。それは人間という存在が本質的に持つ「弱さ」を、自分のものとして習得することだったと思う。人に対する真のあわれみと同情を抱く大祭司としての資格を得るために。
           
       まぶねの中に
①まぶねの中に うぶ声上げ 木工の家に人となりて
 まずしき憂い 生くるなやみ つぶさになめし この人を見よ
②食する暇も うち忘れて しいたげられし人を訪ね
 友なき者の友となりて 心くだきし この人を見よ
③すべてのものを与えしすえ 死のほか何も報いられで
 十字架の上に上げられつつ 敵をゆるしし この人を見よ
④この人を見よ この人にぞ こよなき愛は現れたる
 この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ
                                          <新聖歌99 詞:Ko Yuki,1896-1974>

聖日の朝に <ペテロの最後のすすめ>

2025-02-16 | みことば静想
「ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。」(Ⅱペテロ3:14新改訳)

Ⅱペテロ書は使徒ペテロが殉教する直前に記した最後の書簡だといわれる(→1:14)。彼はイエスのいちばん近くで生活し、後に12弟子のリーダーとなって活躍した人物であった。主イエスから特に愛され、いつも近くにいて教えを受け、失敗も多かったが純粋に主を慕った点で右に出る者はなかった。▼彼とヨハネの二人は、神が人となって地上に来られたという受肉の事実、それに復活された主のおからだをありのまま見つめ、その確かさを目撃した証人として最大の弟子であり、二千年に及ぶ教会の土台になったことを否定する者は一人もいないだろう。▼そのペテロが遺言ともいえる本書で、最後に言い残したのはキリストの再臨、新しい復活世界(新天新地)の到来とそこに入れられることの重要性である(三章)。同じ頃ローマで殉教したパウロもピリピ書の中で、キリストの再臨と信仰者の復活こそ、すべてのキリスト者の最大目的になるべきことを強調している。だから私たちも、決してここからそれてはならないのである。

聖日の朝に <それを、ここに>

2025-01-26 | みことば静想
「弟子たちは言った。『ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。』するとイエスは『それを、ここに持って来なさい』と言われた。」(マタイ14:17、18新改訳)

イエスのまわりに群がる大群衆、その数は男だけで五千人もいたのに夕食がない。調べると食べ物は五つのパンと二匹の魚しかなかった。途方に暮れる弟子たちに、主は「それを、ここに持って来なさい」と命じられた。そしてそこから無数の人々を満腹にされたパンの奇蹟がはじまったのである。▼私たちの信仰生涯にも、ときとして、解決不可能に見える困難が立ちはだかることがある。どう考えても無理、八方ふさがりだ、そう思ってうなだれる場合がないだろうか。だがそんな中で主のお声が聞こえてくるのだ、「それを、ここに持って来なさい」と。弟子たちは、わけがわからなかったが、とにかく手元にあるわずかな物をイエスに持っていった。こんなわずかな食べ物が何の役にたつのだろうか?と思いながら・・・。こうして、あの有名な五千人の給食といわれるパンの奇蹟が起きた。▼信仰の行動とは、むだのようにみえても、ありえないと思えても、とにかくすべてをイエスに持って行くことだ。おことばにしたがって・・・。「イエスは給仕の者たちに言われた。『水がめを水でいっぱいにしなさい。』彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。『さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。』彼らは持って行った。宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。」(ヨハネ2:7~9同)