しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <この大きな都ニネベを>

2023-06-21 | ヨナ書
「ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」(ヨナ4:11新改訳)

ヨナの考えは、イスラエルをなやませるアッシリア帝国がほろびるのは当然、というものであった。しかしもし彼らが悔い改めるならば、あわれみ深い神は審判を思いとどまられるだろう。ヨナは、それががまんできなかった。「私は・・・あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っているからです。」(2同)▼ここには大切な命題がある。当時のイスラエルが異邦人に対して抱く考えはヨナにかぎらず、きびしいものだった。「異邦人ぐらい神の律法からはずれ、汚れた人々はなく、神の国に入るなどというのはもってのほかである」というのだから・・。ところがヨナは当時のイスラエル人より、福音の本質をつかんでいた。すなわち、神はその異邦人でも悔い改めれば審判を免(まぬが)れる、それほど神のお心はあわれみ深く、恵み豊かだ、ということを知っていた。それを承知で、彼はニネベ人たちがさばかれることを願ったのである。▼ヨナの罪深さは神の愛の本質を知ったうえで、なお敵をゆるさず、そのほろびを願うというものであった。これは私たち信仰者に対する大きな警告、問題提起である。あの放蕩息子物語における兄の心理、ナザレのイエスを排除し、抹殺しようとした祭司や学者たち。根底では通じている流れである。▼こうして、ニネベに対する審判執行を取りやめた神の処置をヨナは激しく怒る。いくらなだめても聞こうとしない。そこで神は、御心(みこころ)を彼にあらためてお伝えになる。「選民も異邦人も同じ人間だ。わたしはどちらが滅びても、変わらない悲しみと痛みをおぼえる、ということを、あなたは知るべきである」と。


朝の露 <ひたすら神に願え>

2023-06-20 | ヨナ書
「人も家畜も、粗布(あらぬの)を身にまとい、ひたすら神に願い、それぞれ悪の道と、その横暴(おうぼう)な行いから立ち返れ。」(ヨナ3:8新改訳)

残虐(ざんぎゃく)さで名高いアッシリア人とその首都ニネベ、それがヨナの宣教によって、またたく間に悔い改めの姿勢をとった。熟(じゅく)した柿が落ちるとはこのことをいうのだろう。▼ヨナが行った時のニネベは、アッシリアの歴史の中で、まさに稀有(けう)の人民と王から成(な)っていた。というのは、その後、時代が変わると元(もと)に戻り、アッシリアは滅びるからである。しかしこの時の王と民はヨナのメッセージに驚愕(きょうがく)し、真剣に悔い改め、その生活を自分で糾(ただ)したのであった。▼私たちはアッシリアといえば、戦争に明け暮れ、占領した国々を容赦(ようしゃ)なく虐(しいた)げた民族と思いがちである。だがむしろ、選民イスラエルよりもすなおな心を持った時代と人民がいたのだ。それを知っておられたのは全能の神のみであられた。歴史や民族を「思い込みと浅薄(あさはか)な知識」できめつけてはならないことを教えられる。これは個人についてもいえよう。たとえば、のろわれたエリコの町から信仰ゆえに救い出されたラハブ、彼女はメシアの家系に入れられた(マタイ1章)。同じようにひどい偶像礼拝と無慈悲(むじひ)さのゆえ、のろわれたモアブ民族、その中からすばらしい信仰の女性ルツが出て、ダビデの先祖になっている。▼後に主イエスは言われた、「ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです」(ルカ11:32同)と・・。主の言われたこの時代の人々とは、学者やパリサイ人たち、主の福音を聞いても神の国を受け入れなかった人たちを指している。また、さばきのときとは最後の審判の日であろう。



朝の露 <苦しみの中から>

2023-06-19 | ヨナ書
「苦しみの中から、私は主に叫びました。すると主は、私に答えてくださいました。よみの腹から私が叫び求めると、あなたは私の声を聞いてくださいました。」(ヨナ2:2新改訳)
魚の腹に呑(の)み込まれて生きることは不可能であろう。強い消化液で溶けてしまうし、呼吸もできないのだから。だからヨナが三日三晩も存在できたのは百%神の奇蹟というしかない。▼彼はそこで死の世界をまざまざと味わい、神を離れてよみに落ちることがどれだけ恐怖に満ちた経験であるかを知ったのである。こうして頑固(がんこ)と自己中心は砕かれ、息も絶え絶えになりながら、神に祈ったのであった。本来なら、ヨナは神に捨てられ、その生涯は終わっても不思議でなかったが、憐れみと忍耐の神は彼を赦し、その悔い改めを認めて大魚に命じ、陸地に吐き出させ、こうして彼は助かったのである。▼私はあらためて、神のご忍耐とあわれみの深さを思う。それは今もなお続き、十字架を信じ受け入れる人々がひとりでも多く起きるようにと待っておられるのだ。それを思うと、こうべを垂れて祈りの姿勢を取らざるを得ない。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。」(Ⅱペテロ3:9,10同)


朝の露 <私はヘブル人です>

2023-06-15 | ヨナ書
「ヨナは彼らに言った。『私はヘブル人です。私は、海と陸を造られた天の神、主を恐れる者です。』」(ヨナ1:9新改訳)

ヨナ書はドラマとしてもおもしろく、教会学校の教材としても人気があるのはご存じのとおり。だがこの小話にこめられたテーマは深く、いやむしろ深刻(しんこく)といったほうがよい。つまり、ヨナという人物にみられる、わがまま、頑固さと神への反抗心、偏狭(へんきょう)な祖国愛、浅い思慮(しりょ)と無鉄砲(むてっぽう)さ、しかもそんな人物が神の預言者として召された理不尽(りふじん)さなど、どれも私たちの理解を超える問題提起(もんだいていき)なのである。▼私がもしヨナの主人であったら、こんな扱いにくいしもべは、即刻(そっこく)クビにするだろう。ところがなぜか神はヨナを捨てず、あきらめず、忍耐と寛容の限りをつくし、ご自分の使命を遂行するために用いられたのだ。こうして私たちは、ひとりの滅びることも望んでおられない神のご愛とあわれみ、そのご忍耐の深さを知るに至った。結局、その意味で、やはりヨナ書は面白いし、感動的なのである。万人が愛読する理由がそこにあろう。▼もし神が、ヨナが抱いた気持ち「あくどいニネベなどほろんで当然である」と同じ気持ちの御方であったら、私たち異邦人の救いはなかった。福音も世界宣教もなかったはずである。その測り知れない御忍耐、寛容、あわれみのゆえに、十字架から生命の流れが湧き出て、東の最果て・日本にも届いたのである。ヨナはその神のやさしさ、愛の広さを知っていた。ニネベを滅ぼしたくない、という愛の広さも(知識としては)理解していた。そのうえで神のお気持ちがゆるせなかったのであった。▼ヨナには人の抱く罪深さがみごとに描かれる。それは絶対愛よりも絶対正義が優先されなければならない、そうであってこそ正義の神は神たり得るのではないか、ということであろう。ヨナは知らなかった。まもなくキリストの十字架、永遠のなだめのそなえものが、神によって用意され、神御自身がその成就者になられるときが来る、ということを。しかし、だからこそ、ヨナ書は面白い。おまけにヨナは夢想だにしなかったが、主が死んでよみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえる、ということの予表として行動していたのであった。▼傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に行動したように見えるヨナだが、結局は神の御計画の外に出られない預言者であった。思わず告白したことばにそれが現れている。「私は、海と陸を造られた天の神、主を恐れる者です」


朝の露 ヨナ書4章 <ヨナの怒り>

2018-12-03 | ヨナ書

熊本城「主に祈って言った。『ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。』」(ヨナ4:2新改訳)

ヨナは非常に意志が強く、愛国心に燃えていた人物だということがわかる。▼神に選ばれたイスラエルを滅ぼそうとしていたアッシリヤ、それを助けることなど、たとえ神の御命令であってもできない。絶対に嫌だ、ほかの預言者に命じてください。まちがいなく彼はそう祈ったであろう。だが神はその御命令を変更されなかった。そこでヨナはタルシシュへ行こうとしたのであった。もちろん罰せられることを覚悟の上で逃走をはかったのだ(→ヨナ1:12同)。▼ヨナが持っていた偏狭(へんきょう)な愛国心を指摘するのは簡単だ。しかし神の無限に広い愛とあわれみの御心を、我々は真に理解できているだろうか。ヨナ書はそう問いかけている。◆偏狭な生き方は心の腐敗性、邪悪性から発している。私たち人間はその恐ろしさに気がつかないだけである。ヨナは神のご本質が「情け深くあわれみ深いこと、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されること」をよく知っていた。それを知っていたうえで、神の御命令を拒否したのであった。アッシリヤとニネべは滅ぼされて当然であり、なくなった方が良いのだ、との確信を神の御心の上に置いた預言者であった。◆しかし私たちはどうであろうか。「あの人はいないほうがよい」とか、「邪魔者は消えてしまえ」とか思ったことはないであろうか。個人的なことだけでなく、「日本は地震で海の中に没してしまえばいい」といったツィートを見たことがある。この心理の究極がイエス・キリストの十字架である。それは、神を排除し、神を消さずにはおかない私たち人間性の動かぬ証拠である。すべての人はそこに立たなければならない。ヨナの世界から自由にされるために。