「民はベニヤミンのことで悔やんでいた。主がイスラエルの部族の間を裂かれたからである。」(士師記21:15新改訳)
この内戦の原因が、ベニヤミンの町ギブアに住む人々の不道徳にあったことは確かである。しかしそれを責め、戦いを仕掛けるほど、他部族は神の前に正しく歩んでいたか、となると疑問であった。もし彼らがほんとうに主の御旨と信じて戦っていれば、悔やむことはなかったろう。ところが悲劇的結果になったのを見て、彼らは後悔の念にさいなまれたのである。▼イスラエル人たちの信仰は手前勝手であり、矛盾に満ちていた。声をあげて激しく泣き、なぜこんな悲劇が私たちに起きたのですか?と神にたずね、祭壇を築いて神にいけにえをささげものの、神の御声を待ち望まないで計画を立て、実行した。つまり今後どのようにすべきかを神に尋ねないまま自分たちで相談し、ヤベシュ・ギルアデの町から四百人の娘たちを捕らえ、それでなお足りないとわかると、シロで行われた主の祭で二百人の娘たちを略奪、ベニヤミンの生き残りに妻として与えた。▼これは昔から異邦人世界で行われていた略奪婚で、女性の人格はおろか人間としての価値すら認めない行為である。創世記12章からもわかるとおり、当時は他人の妻が欲しいとなると、夫を殺して奪い取る風習もあった。言語道断の行動だが、ノアの子供たち、もとはといえば血を分けた人類が、時代が下がるにしたがって、ここまで腐敗堕落したことに寒気をおぼえざるをえない。しかし、現代も本質的にはこれと同じような犯罪がありとあらゆる国や地域で行われていることは周知の事実である。罪とはなんとおそるべきものかを、自分の問題として鋭く意識することが必要であり、旧約聖書の目的はそこにあるともいえる。結局最後に行きつくところはイエス・キリストの十字架である。人は自分が神の子を十字架につけるほど罪深い存在、との自覚なしに罪から自由になることは決してできない、ということだ。▼ともあれ、士師記の最終章が語るように、真の謙遜と悔い改めなしに抱いた一時的な正義感は、イスラエル民族分断の悲劇をもたらしただけに終わった。