しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 Ⅰテモテ2章 <控えめに慎み深く>

2017-04-08 | Ⅰテモテ

シネラリアピンク「同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。」(Ⅰテモテ2:9,10新改訳)

ここは女性だけでなく、男性もふくめたすべてのキリスト者が、自分を飾るということに関し、どのようなあり方がふさわしいかを示唆したものである。▼一言でいえば、私たちは恵みによって救い出された者として、感謝・謙遜という人柄を飾りにするのだから、物質的な飾りもおのずと決まって来る、ということだ。▼現代人の服装、装飾は一般的に言って華美で、肉欲をそそるような行き過ぎたものが多い。これは本来飾りにすべき「心の中の隠れた人がら」が何もないという自信の無さの現れであろう。▼人として来られた御子は、神の栄光の輝き、神の本質の像であられたが、外側は見栄えなき一般人として、ただ謙遜と愛に生きられた。このありかたこそ真の飾りである。

日本語には「奥ゆかし」という古語があるが、これは「さらに奥のものが知りたい」、「なんとなく慕わしい」との意味だと、辞書にある。聖書により、イエス・キリストを知れば知るほど、その愛の広大さ、知恵と知識の富の深さを感じ、もっと深く知りたい、交わりのさらに奥へ進みたい、とだれもが望むのではないだろうか。▼私たちの内に宿った御霊こそ、キリストの栄光の豊かさを説き明かすことができるお方である。そこで、真に奥ゆかしい人格を持つ人とはどのような人かというなら、御霊とともに歩み、三位一体の神との豊かな交わりに入れられた人、またその交わりを熱心に渇き求めている人だといえよう。あのスカルの女性がナザレのイエスに惹かれたのは、ほかでもない、人格の奥底からわき出ているいのちの泉の清冽さに目が開かれたからなのであった。キリスト者の内から、自分でも気づかないうちに、「無限の奥ゆかしさ」を持つお方が芳香のように流れ出していたら、いかに幸いなことであろう。