しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 詩篇102篇 <悩む者の祈り>

2017-04-26 | 詩篇

チューリップ赤「私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました。私の嘆く声で私の骨と皮はくっついてしまいました。」(詩篇102:4,5新改訳)

表題に「悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの」とあるのが印象的だ。▼神に打たれ、骨と皮になるほど悩んだ人といえば、罪を犯したときのダビデ、試練に会ったヨブ、エルサレムが灰燼に帰したとき涙にくれた哀歌のエレミヤが思い出される。旧約聖書、とくに詩篇のすばらしさは、悲しみと涙の谷底に落ちても、そこから天におられる神を見上げ、祈り叫ぶ、という信仰の姿勢が描かれているところにある。本篇の詩人(ダビデにちがいない)は、自分と周囲を取り巻く事情を見る限り、悲嘆と絶望以外になかった。しかしその中でも、彼の視線はしっかりと天に向けられていることがわかる。そこには神が御座についておられ(12)、地に目を注いで、そこでうめいている人の祈りに耳を傾けておられる(19)。つまり、この事実があるかぎり、どんな人にも絶望という言葉は当てはまらいのだ、と知る。▼まして私たちを愛し、十字架にいのちまで捨てられたキリストを見出した者には、希望と勝利以外に何があるというのだろう。「しかし、このようなこといっさいのただ中においてもなお、私たちは、私たちを愛してくださったかたによって、大勝利者なのです。私は少しの疑いもなく次の事を確信しています。すなわち、死も、いのちも、天使も、権勢も、差し迫っている事も、未来の事も権力も、高さも、深さも、全被造物の中のほかの何ものも、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から私たちを離れさせることはできません。」(ローマ8:37~39詳訳)