しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

荒れた一日

2014-09-18 | インポート

Photo_2 今日は岩見沢に行きましたが、じつに荒れた一日でした。札幌から高速で小一時間ほどですが、雨、晴れ間、黒雲などが全部あったのです。

写真は晴れから雨に変わる光景で、雲間から差し込む太陽の光りがきれいで、いわゆる「ヤコブのはしご」が浮き出ました。少しぼけていますが、じっさいにはとてもあざやか。

高速道にはところどころに風速計と温度計がありますが、気温は14℃でした。上空には北からー20℃以下の寒気が押し寄せてきて、不安定なお天気になったそうです。寒くなってきた北海道ですが、地上は咲き急ぐ花々が咲き乱れ、コスモス、ダリヤ、ひまわり、ベゴニヤ、菊などがとてもきれいです。しかし、予報では明日の気温は9℃ー19℃、そろそろストーブが恋しい日々となってきました。


虹が

2014-09-17 | インポート

Photo_2 このところ北海道には寒気が入り込み、天気がころころ変わる日が続いています。

ホーム・センターに買い物に行ったとき、黒雲が西のほうから近づいて、青空との境目がはっきりわかりました。

これでは、今夜も雨が降るなぁと思い、見ていると虹が現れたではありませんか。

空気は冷たく、20℃に届かないくらいで、11月の気温です。店内ではストーブ売り出しの真っ最中。真っ赤な火がいっせいに燃えているので、とてもきれいでしたが、近寄って見ると火ではなく赤いランプがつけてあるだけでした。羽鳥で使っていたなつかしいマキストーブも展示中。札幌市内でも、所によっては使えるんですね。

外に出ると、にじはまだあります。近くの親子連れが、「きれい、なにか良いことがあるかも!」と言っていました。暗いニュースの多いなか、そうだといいな。私も思いました。


朝の露 創世記34章 <ディナの悲劇>

2014-09-17 | インポート

 Photo 「レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを尋ねようとして出かけた。」(1新改訳)

このとき、ディナは従者も連れず、ひとりで出かけたのだろう。無防備の中をおそわれ、現地人のシェケムに凌辱されてしまった。不用意といえば不用意だった。

もともとカナンの地は偶像礼拝や悪徳、暴力に満ちた、女性にとって危険な場所であり、アブラハムやイサクは、妻を自分の妹と偽ってまで、身を守ろうとしたのである。純真なディナはその危険も知らず、興味本位から、現地の女性を訪問しようとし、悲劇を招いてしまった。

このことからわかるのは、ヤコブ家に敬虔な信仰生活が希薄だったのではないか、ということである。たとえば長男ルベンはヤコブの妻ビルハ(つまり彼の異母にあたる)と不倫をしたし、四男ユダは遊女と勘違いして、嫁タマルと道ならぬ関係を結んだ。もしヤコブが霊的、信仰的に油断しないようにと一家を教育していたら、ディナは悲しい目にあわずにすんだかもしれない。

主は「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」(マタイ10:16)と言われた。信仰者がこの世で暮らしていくとき、じつは危険と隣り合わせなのだということを忘れてはいけない。決して油断せず、聖霊によって歩むべき理由がそこにある。

[写真:小野淳子]

 


山しゃくなげ

2014-09-16 | インポート

Photo 教会向かいのOさんの庭に、珍しい花の実があるから来て見てごらん、と言われたので行って見ました。

とても変わった花のようで、何ですか?と聞くと、山シャクナゲの実だよ、と言われました。

そういえば夏に、白いシャクナゲの花が咲いていたように思います。花は、ふつうのシャクナゲ(どちらかといえば、地味な)でしたが、こうして実を宿した房が割れ、中の種が見えるようになると、とてもめずらしい形と色をしています。

鳥が飛んで来て種を食べ、あちこちに増え広がるのでしょう。そのために、目立つかたちと色をしているのかなぁ、と思いました。

天の父は、山の中にひっそり咲く野草にさえ、こんなすてきなデザインを凝らし、自然界を飾っておられるんだ・・・。感動します。まして世界中のクリスチャンたちの心の中を、どれだけ飾って美しくしておられることでしょう! まさにハレルヤです。

「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」(Ⅱペテロ1:4)


創世記33章 <くだかれたヤコブ>

2014-09-16 | インポート

 In 「ヤコブは答えた。『いいえ。もしお気に召したら、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。』」(10新改訳

 たぶんヤコブは、兄から何らかの形で復讐されるのを覚悟していた。かつて幾度もだました過去を持つからである。ところが「エサウは彼を迎えに走ってきて、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた」(4同)のである。

前の晩、ヤコブは神と格闘し、腰骨をはずされて逃げるに逃げられない状態になっており、霊的にも肉体的にも「くだかれた」彼は、神に祈りながら兄に近づいた、それがこのような和解をもたらしたのだ。

後にイスラエル王のダビデは、バテシェバ事件で涙の悔い改めをしたとき、「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)と歌っている。

真の和解は、まず自分が砕かれ、神にひざまずくことから始まるのではないだろうか。それをしないで、相手に砕かれることを求めるなら、そこには争いしか生じない。「あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイ7:2)と主が言われたとおり。

[白銀の滝 in北海道]