「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを彼らに学ばせるためです。」(Ⅰテモテ1:19,20新改訳)
パウロの晩年、ペンテコステから三〇年以上経ると、少なからぬ人々が、正しく健全な信仰からそれて行くようになった。▼もちろん使徒は以前からそのことを予想し、エペソの長老たちと別れるとき、「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい」(使徒20:30,31同)と諭した。本書執筆から五年ほど前のことと思われる。▼今日でも、洗礼にあずかった人々のうち、数十年後まで正しい信仰を維持する者はほんのわずかで、大部分はこの世に戻ったり、おかしな信仰や異端に走ったりする。主が「それ招かるる者は多かれど、選ばるる者は少なし」(マタイ22:14文語)と言われたとおりに・・。だから目をさまし、謙遜と忍耐をもって最後まで走り抜かせていただきたい。▼「破船」というと、嵐や激浪のため、自分が望まないのにそうなるとのイメージが強いが、信仰の破船はあくまでも自分の意志で「正しい良心を捨てる」ことを意味する。すなわち自ら進んで永遠のゲヘナに落ちる運命を選ぶのであり、本人は感じていないだろうが、パウロにしてみれば心が槍で貫かれるような思いだったのは確かだ。▼湖上を歩いたペテロは風を見て怖くなった瞬間ズブズブと沈み始め、奈落の湖底に落ちて行く恐怖から、「主よ。助けてください」(マタイ14:30同)と叫んだ。そして間一髪、主にからだをつかんでもらい、助かったのであった。信仰の破船に遭っている人は、生涯のどこかで、「主よ。助けてください」と叫べるかどうかに永遠の救いがかかる。あるいは最後の最後に臨終の床で叫ぶことができるかもしれない。その瞬間、彼は主の御手で襟首をつかんでいただける、とは思う。