しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <結晶>

2017-04-09 | みことば静想

水仙と雪柳「聖書に『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」(Ⅰコリント15:45新改訳)

ダイヤモンドは炭素から出来ている。なんのことはない、炭や墨汁と同じ成分だ。ところがその生成過程には大きな差がある。▼地下深い場所で炭素が二千度もの高温にさらされ、本来なら燃えて灰になるところなのに、空気がないため燃えることができず、おまけに周囲の岩石やマグマのため6~7万気圧というものすごい圧力を受け、結晶化する、こうしてダイヤモンド原石が生まれる。貴金属店のショーウィンドウ越しに、美しい光を放つダイヤを見る人で、地下深く織りなされる大自然の威力のすさまじさに思いを馳せる人は少ないであろう。▼私はこの有様に十字架のイエスを思わないではいられない。イエスはアダム以来生まれ出たすべての人間の罪を負い、捨てられた。そして十字架上では、わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか、と叫ばざるを得なかった。それは炭素が何万気圧、何千度の高温にさらされながら逃げ場がない状態に置かれたのに似ている。生きることも、死ぬことも、どこかへ移ることもできない。狂うことも麻痺することもできない、正常なまま死と怒りを味わい尽くす、もはや私たちの想像できぬ世界である。ただひとつわかるのは、神がそれを望まれた、ということだ。神の測り知れぬ御心をなだめ、満足させるのは、測り知れぬ苦しみしかない。▼「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」(ヘブル2:9,10同)▼かくて神の子は比類なき贖いの供え物になり、最後に「すべてが終わった」と言い、霊を御父に渡され、墓の中にお体を横たえた。ヨセフの墓中に納められた主の御体は、天地宇宙間にひときわ光を放つダイヤモンドともいえる。その美しさ、尊さ、完全さにおいて。また、神の御満足という点において。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。・・・彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。」(イザヤ53:11,12同)