平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

龍馬伝 第26回「西郷吉之助」

2010年06月28日 | 大河ドラマ・時代劇
 西郷吉之助(高橋克実)が登場。
 彼の考え方の中心はあくまでも薩摩藩。薩摩が天下を動かすために行動している。
 そこには龍馬(福山雅治)や勝(武田鉄矢)の様に「国内で争っていては海外列強に国を奪われる」という発想はない。
 薩摩が権力を握るために武力を使い政治力を使う。邪魔なものは排除する。
 この点、後の戊辰戦争で幕府が滅びるまで攻め続けた西郷像と合致する。
 西郷にしてみれば、龍馬の様な「みんなで仲良く」という発想は甘いのだ。
 現に幕府はフランスと手を組んだ。一橋慶喜(田中哲司)はしたたかだ。うかうかしていたらかつての力を取り戻してしまう。
 薩摩、幕府、長州……西郷はこうした権力争い、政治のリアリズムの中で生きている。
 だから西郷にしてみれば、龍馬の言っていることはきれいごとでしかない。
 勝は幕府の中での権力争いに敗れた男でしかない。

 そして個人は無力。
 龍馬の西郷に対する意見など、「何者でもないただの浪人が薩摩藩の重臣に意見するな」と簡単に否定されてしまう。
 権力争いの中では個人の純粋な思いなど無力なのだ。
 それは武市(大森南朋)も同じ。
 もっとも容堂(近藤正臣)は、天下国家というよりは<下士憎し>という動機で動いているようであるが。

 というわけで完全に行き詰まった龍馬。
 「若者には無限の可能性があり、何でも出来る」と勝は言うが、それは同時に<何も持っていない>ということだ。
 若者は世の中を動かす力を持っていない。純粋な思いや熱情だけでは世の中は動かせない。
 若者の前には常にオトナや権力が立ちはだかる。
 西郷に発言力があるのは薩摩藩という背景があるからだ。武市もかつてはそうだった。
 第二部は<個人の敗北>というテーマで終わりそうである。
 龍馬は<個人の人>だが、個人では何も出来ないと知った龍馬が世の中を動かすためにどう動くかが第三部のテーマになりそうである。

※追記
 それにしても「龍馬伝」は司馬遼太郎作品の<痛快さ>とはほど遠い。
 司馬遼太郎作品では、龍馬と西郷の会見など最大の見せ場で、英雄どうしの会談として面白おかしく描かれるだろう。
 勝も「龍馬伝」では、「もう歳をとった。冒険は出来ない」と弱音を吐いてるし。
 この描かれ方を良しとするか悪しとするかは好みの問題。

※追記
 毒饅頭を渡す弥太郎(香川照之)の震える手。
 ギリギリの人間を描いてますね。
 人間は普段、鎧をつけて取り繕って生きているものですが、この弥太郎は鎧を脱ぎ捨ててむき出しの人間を見せている。
 これにはどんなせりふもかなわない。
 それまでの龍馬を含む役者さん達の演技が全部かすんでしまう。
 香川照之さん、美味しいところを持っていきますね。


コメント (2)
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