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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

天然コケッコー 映像と小説~読む愉しみ

2010年02月04日 | 小説
 少女映画の名作「天然コケッコー」をノベライズした小説(集英社・コバルト文庫)を読んだ。
 言わずと知れたことだが、映像と小説はメディアとして違う。
 たとえば、「天然コケッコー」を小説で書くとこうなる。

 村の学校に東京から来た大沢広海が転校してきた時のこと、右田そよはこう思う。
 「古ぼけた教室の中で、大沢広海のすがただけが浮き上がって見える。まるで別世界から降ってきたようだった」
 「肩が触れ合うほど近くに並んで立つと、広海からは、思わず目を閉じて胸の奥へ吸い込みたくなるような匂いがただよってきた」

 表現としては類型的な面もあるが、これは映像やコミックでは表現出来ない。
 モノローグで<別世界から降ってきたようだった><吸い込みたくなるような匂いがただよってきた>と語ることも出来るが、説明っぽくなってしまう。

 こんな表現もある。
 給食配布の時、そよはデザートのプラムを広海に素手で渡す。
 だがその時、広海はこう言う。
 「手、よく洗った? オシッコくさいデーザートとか嫌じゃん」
 実は給食の前、小学二年生の早知子がおしっこを漏らし、そよが後始末をしたのだ。
 広海にそう言われたそよの気持ちはこう表現される。

 「いっきに頭に血がのぼるような思いがした。
  オシッコの匂いが、その手からプラムに移っているかもしれないと言いたいのか。
  たとえ思ったとしても、そんなことを面と向かって言うものだろうか。
  なんて失礼な、無神経なやつ……!
  自分の席に着いたそよは、もう広海に話しかける気にはなれなかった。
  早知子の汚したパンツを洗ってやるのは、いつもやってることだ。
  そして、いつもその手でチョークを持って黒板に書いたり、配膳当番でみんなの給食を配ったりしている。
  そよ自身もそれを変だと思ったことはなかったし、他の生徒からも、しっかり手を洗ってからにしろだの言われたことは一度もない。
  でも……。
  広海に指摘されると、変だと感じていなかった自分の感覚の方がおかしかったようで、怒りと同時に、恥ずかしさが湧き上がってくる。恥じる必要なんかないのに、胸を張っていられない。
  広海と目を合わさないようにしながら、そよは黙々と給食を食べた。その日の給食は、まるで味が感じられなかった」

 実に上手い心情描写だ。
 <怒りと恥ずかしさ>
 人間の感情というのは単一なものではない。
 とても複雑なもので、この表現のように<怒り>と<恥ずかしさ>が入り交じったりする。
 そして、こういう複雑な感情表現に触れると愉しくなる。
 映像でも表現できなくもないが、それは役者さんの演技の領域。
 <怒りと恥ずかしさ>を演技で表現しなければならない。
 あるいはラストの<その日の給食は、まるで味が感じられなかった>という表現なんかは絶対に映像では表現できない。

 映像に映像の、小説には小説の、表現メディアとしての特性・良さがある。
 その点でこの「天然コケッコー」のノベライズは成功している。
 ノベライズされたのは下川香苗さん。
 下川さんは、そよの気持ちを深く掘り下げ、的確な文章でそれを表現している。
 そう言えば、原作のくらもちふさこ先生もあとがきでこのノベライズをほめておられた。


 映画「天然コケッコー」のレビューはこちら


コメント
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