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ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

家政婦のミタ、あるいは「喪の作業」。

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
初出 2011年12月29日




 『家政婦のミタ』は、ああ見えてじつは良心的なドラマだったと思う。あんなふうに強烈なキャラを中心に据えて話を引っ張っていくタイプの作品は、本来ぼくは好きではない。見る前は、市原悦子の「家政婦は見た」をもじったタイトルから、どうせキワモノだろうと思っていた。その予想はいい方向に裏切られた。毎週リアルタイムで観たし、最終回、ついにミタが笑顔を見せるシーンでは、やっぱり目頭が熱くなった。今年みたドラマの中で、いちばん印象に残った一作だ。


 脚本の遊川和彦は、6年前に『女王の教室』で話題をまいた人らしい。ぼくは生憎そちらを見てないが、「学校」や「家庭」といった、現代社会の病理が濃縮されて表れる場を舞台に、明らかに常軌を逸していながら、その決然たる言動によって難題を解決していくヒロインを描く、という点で「女王」と「ミタ」は共通しているようだ。「強い女」が主役を務めるドラマが珍しくない、というか、むしろ男性が主役のドラマのほうが珍しい昨今のテレビ界にあって、さらに上をいくニュータイプのヒロイン像を確立したといえるかもしれない。


 ぼくが面白かったのは、阿須田家の面々に対するミタの振る舞いが、きわめて荒っぽいながらも、的確なサイコセラピー(心理療法)になってるように思えたところだ。ミタの振る舞いは、その破天荒なところも含めて、結果として理に適っている。キワモノめいた第一印象にも関わらず、このドラマには、一本しっかり筋が通っているのだ。だからこそこれだけの好評を博したのだろう。最終回、ミタがうららに「今まであなたが言ってきたことは、ぜんぶ正しいんです。ただ、伝え方が間違っているだけです。」と諭すシーンがある。それはまったくそのとおりで、当節、いくら正しいことを真っ当に、熱っぽく訴えたところで、「うざい」「暑苦しい」と疎まれるばかりだ。メッセージの内容そのものより、むしろ「いかに相手の心に届けるか?」のほうが重要なのだ。このドラマの成功は、「家族の絆の大切さ」という使い古された(しかしもっとも重要な)テーマを、当世風の手法で料理し直して、視聴者の心へ届けた点にあったのだろう。


 あらすじを辿っていこう。第1話の冒頭は、ドラマの舞台となる阿須田家の朝食のシーン。一流企業に勤める父親の恵一(長谷川博巳)以下、高校2年の長女・結(忽那汐里)、中学2年の長男・翔(カケルと読む。中川大志)、小学6年の次男・海斗(カイト。綾部守人)、幼稚園児の希衣(キイ。本田望結)の五人は、見るからに気持がばらばらで、子供たちはみな浮き足立ち、苛立っているように見える。登校前の慌しい時間だからってだけではなく、彼らは2ヶ月前に母親の凪子(なぎこ)を水難事故で亡くし、そのために内面が荒んでるのだ。長女の結は、「私ばかりに家事を押し付けて」と怒っているが、それは表面のことで、彼女のほんとうの鬱屈は、母親の死をまだ受け止められないところに発している。それは他の3人も同じだ。その中で父親の恵一は、へらへらと愛想笑いを浮かべ、子供たちに対する貫禄などはみじんもない。子供たちの諍いがエスカレートして、思わず叱りつけそうになったら、あわててトイレに駆け込んで、そこで気を落ち着けるありさまである。その様子は父親というより年長の兄貴分くらいの感じで、そのことが大きな伏線となっている。


 そこに、野球帽をかぶり、ダウンジャケットを着てドクターズバッグを提げた三田灯(ミタ・アカリ 松嶋菜々子)が来訪する。約束の時間に一秒たがわずきっかりに。家事に追われる長女を見かねて、恵一が家政婦を頼んでいたのだ。ここからはもう、一気にミタの独擅場である。「家政」とはもともと、古代ギリシアにおいて資産家の家屋敷や財産をマネージメントする職務であり、この「家政」を修める「家政学」こそが今日の「経済学」の源泉になっているといわれるほどの、とても重要なものなのだけれど、三田はまさしくそのような意味で完璧な「家政」婦であり、炊事洗濯、掃除は言うに及ばず、阿須田家の家事全般を細大漏らさず管理する。初回の来訪時にしてすでに家族全員の交通機関とその発着時間を把握しており、出勤や登校を促すという周到さなのだ。さらに彼女は、「アンパンマン」の登場キャラやAKB48の名前をすべて暗唱してみせて、幼い希衣の気持をいっぺんに掴んでしまう。


 このミタは断じて笑わない。松嶋さんの演技が評判になっていたようだが、いっさい表情をかえず、感情を表にあらわさないのだ。それどころか、体温も極度に低く、暑さや寒さといった感覚も持たないらしい。「ターミネ―ター3」に恐ろしい女性タイプのレプリカントが出てくるが、あんな感じである。ドラえもんの四次元ポケットさながら必要な物が何でも出てくるバッグと併せて、このあたりはマンガ的な誇張なのだが、阿須田家の抱えた病は、これほどの超越的人物が介在しなければ癒せないほど根深いものだったのだ。裏返していえば、現実の世界の多くの家庭は(むろん、その大半は阿須田家ほどは根深く病んではいないだろうが)、ミタさんの介在を得られぬままに、大なり小なり問題を抱え込みながら、どうにかこうにかやっていかざるを得ないということである。


 阿須田家の病根は、父親の恵一にあった。じつは子供たちの母親・凪子は事故死ではなく、入水自殺だったのだ。恵一はエリートサラリーマンなのだが、その精神はきわめて未熟で、四人も子供をもうけながら、いまだ父親になりきれていない。「妻を愛してなかった。子供たちすら、本当に愛しているのかどうかわからない」などと、初対面に近いミタに打ち明けるのである。もちろんミタは、「それが何か?」と鉄面皮で答えて相手にしない。


 彼は職場の後輩OLと不倫しており、人生をやり直したいと言って、妻の凪子に別れ話を切り出した。その直後に凪子は入水した。恵一はその遺書を隠匿し、警察にも見せなかったのだが、ふとした偶然から長女の結にその事実を知られてしまう。そこから一挙に阿須田家は崩壊へと向かう。そりゃそうだろう。自分たちを見限ってほかの女性のもとに走ろうとした父と、自ら命を絶った母。子供たちにしてみれば、父親と母親、双方からいちどに捨てられたようなものだから。さらに父親の不倫が絡んでいるともなれば、ただでさえ多感な時期の長女にはとうてい耐え難いはずだ。


 少し時間をさかのぼり、子供たちの心理を中心に、エピソードをまとめていこう。第1話でミタは「お母さんに会いたい。」という希衣の哀願を受けて一緒に入水しようとする。これは長男の翔に見咎められて事なきを得るが、その夜には凪子の遺品を家族全員の目の前で燃やす。このような行為はフロイト系の心理学用語で「喪の作業(喪の仕事)」と呼ばれ、遺族が近親者の死を乗り越えて再生に向かっていくときに、どうしても乗り越えなければならないステップとされている。むろん、後追い自殺を試みたり、遺品を処分したりするのが「喪の作業」というわけではない。あくまでそれはドラマ上の演出として設定された象徴的な行為であり、実際には個々人の内面において行われる。冒頭でぼくが「サイコセラピーとして理に適っている」と述べたのはそのことだが、しかし誰しもお分かりのとおり、たいへんな荒療治であるのも確かである。ひとつ間違えれば遺族のほうまで、再生に至らず命を落としてしまいかねない。それくらいの難事なのだ。


 第2話でミタは、次男の海斗が直面していたいじめ問題を、これまた相当な荒療治で解決する。このエピソードは「喪の作業」と直接関係はないが、第10話で海斗が母親への哀悼と感謝の思いを作文にしたとき、「たいへんよくできたと思います。」と受認の言葉を投げかけるエピソードへと繋がっている。結が母の死の真相を知るのはこの第2話のラストである。第3話では、どうしても父親の所業が許せぬ結の依頼に応じ、恵一の会社のエントランスで彼の不倫を暴露するビラをまいて、そのために恵一は左遷の憂き目を見る。家族の絆の大切さの前には、安定した仕事すら物の数ではない、というのが作り手からのメッセージなのだが、果たしてどれほどの数の視聴者が、それを自らのものとして切実に受け止めただろうか? そしてついに結の口から母の死の真相を聞かされた子供たちは、恵一を残して家を出て行き、亡き母の父親である義之(平泉成)のもとに身を寄せる。


 この義之は、どうやら恵一の本質に早くから気づいていたらしい。もともと結婚にも反対していたようだし、娘の死が彼の責任であることも何となく察していた節がある。だからつねに恵一のことを痛烈に罵り、また、かつて校長を務めていたという履歴もあって、孫たちに対する態度もひどく居丈高なのだ。だから子供らもここに身を寄せるのは不本意なのだが、ほかに行くあてがない以上、背に腹は変えられない。この家にはもうひとり、亡母の妹であるうらら(相武紗季)がいる。この娘は対照的に恵一びいきで、ふだんから阿須田家のことを気にかけ、何くれとなく世話を焼いている。陽気で前向きな性格ではあるが、悲しいかな非常に不器用かつ要領が悪く、おまけに運に見放されており、やることなすことドジばかり、その好意はほぼ100パーセント裏目に出る。子供たちはけっして彼女を嫌っているわけではないのだが、少し重荷に感じてはいる。


 この結城うららというキャラクターが興味深いのは、ユング派の心理学でいう「シャドウ」の概念を体現しているからだ。彼女は、主人公であるミタの影なのだ。もちろん、ミタのほうがうららの影だということもできる。第8話の冒頭で、長女の結(忽那汐里)がミタとうららが入れ替わってしまう夢を見るが、そのことが彼女たちの関係を端的に物語っている。ロボットのごとくパーフェクトに家事をこなすミタと、料理を作れば素材をすべて台無しにし、台所を壊滅状態に陥れてしまううらら。片方はマイペースに徹して決して表に感情をあらわさず、片方は周囲にあれこれ気を使い、ずっと笑顔を絶やさない。彼女らはいずれも両極に偏っており、ふたりが融合することで初めて均整の取れた人格となる(しかもどうやら聡明なミタには、そのことも分かっているようである)。


 第4話でミタは、「家族を仲直りさせるために、みんなで会えるようにして。」という希衣の依頼を受けて、彼女の誘拐を遂行する(この時もまた、希衣は危うく命を落としそうになる。幼い子にとっても「喪の作業」は命がけなのだ)。その試みは功を奏して、家族はいったん一堂に会するのだが、父親がまだ不倫相手に未練を残していることを知る結は、恵一の本心を問い詰める。希衣もまた、「お父さんは希衣のこと好き?」と素朴にして核心を突く問いを投げかけるのだが、恵一は呆然として「分からないんだ……」などと情けない答を返すばかりだ。そこに義父の義之が闖入し、「これがこの男の本心だ。」と怒鳴り散らしながら恵一の首を絞め上げる。彼もまた娘の死の真相を知り、かんかんに怒っているのである。ひと悶着ののち、結は、「弟たちの面倒は私が見るから、お父さんがこの家を出てって。」と宣告する。恵一はそれを受け入れ、ミタに引き続き家政婦として留まってくれるよう依頼して、今度は自分が家を出て行くのだった。


 子供たちだけが家に残って、いよいよ荒廃の度合いを深めた第5話では、長男の翔(カケル。中川大志)がフューチャーされる。このカケルのことを悪く言う意見をネットで見かけたが、中学2年生としてはとてもしっかりしているし、よくやっているとぼくは思う。少なくともぼくの中2のときよりは遥かに立派である。表層だけを見ているかぎりでは、彼は家庭や学校で周りの者に苛立ちをぶつけ、荒くれているようにしか見えないが、内心では「家族を守りたい。」という切実な思いに駆られており、その思いが空回りしているせいで焦っているのである(ミタだけはそれを洞察しているが、そのことを特別なかたちでカケルに伝え、彼の鬱屈を解放してやるのはこの回のラスト近くになってからだ。大事なことをたやすく口にしてしまっては、輝きが色あせてしまう。何ごとにもタイミングが肝心なのである)。姉の結(忽那汐里)とも対立し、キャプテンを務めるバスケ部でも孤立したカケルは、やけを起こしてミタに性的な関係を要求するが、ミタはあっさりとその「依頼」を承知する。しかしさすがにこれは、カケル自身のためらいと、たまたま帰宅した結の制止によって頓挫する。


 この挿話は、続く第6話で、やはり自暴自棄になった結が高校のクラブの先輩と性的な関係をもつ件りと呼応している。心がまるで通い合っていない、ただ肉体だけの繋がりは、まったく空しいものであるばかりか、かえって精神そのものを荒涼たるものにしてしまうということである。その先輩にも裏切られた結は橋のうえから投身しようとするが、心配してあとを付けてきたうらら(相武紗季)に押し留められる。何をやっても失敗ばかりだったうららが、初めて有意義なことをする重要なシーンだ。しかしうららには、阿須田家の面々の心までをも癒すことはできない。傷心のまま帰宅した結はミタに向かって「私を殺して」と依頼をし、ミタはその申し出を実行すべく、包丁を手に家のなかを追い回す。これもまた、ドラマ(虚構)でなければありえない、いかにも熾烈な「喪の作業」である。幼い希衣(キイ。本田望結)にとっても「喪の作業」は命がけであったが、結のばあいは年齢が高くなっているだけに、よりハードなものになるわけだ。


 駆けつけた父親の恵一(長谷川博己)やカケルたちの前で、結は包丁を自分の首に突きつけ、「私には生きる意味なんかない。死んだほうがましよ。」と叫ぶが、ミタは相変わらずの無表情で、「それは、あなたが幸せだからです。あなたにはまだ、あなたを愛してくれる家族がいて、あなたが死んだらその人たちがどれほど傷つくか、あなたにはよく分かっているはずです。」と言い放つ。それに応じて恵一が、「結の名前はお母さんが付けた。お母さんは、『この子は必ず家族を結んでくれる』と言って産んだんだ。」と言ったことから、やっと彼女の気持も和らぎ、ようやく父娘は和解に至る。希衣、海斗、カケル、結と、年齢に応じた「喪の作業」の第一段階を済ませて、子供たちはそれぞれの危機を乗り越え、精神的に成長を遂げて、ひとまずここで平穏を取り戻すのである(翌日、結は先輩にきちんと決別を告げ、そのあとはずっと、きょうだい四人で行動を共にするようになる)。


 第7話では改めて父親の恵一にスポットが当たる。ミタの雇い人である紹介所の晴海明美(白川由美)によって、「いちばんの問題児」と評されるこの人のばあいは、妻を亡くした心の傷を癒すというより、そもそも亡妻を含めた家族たちへの愛情を自覚することから始めなければならなかった。ぼくなどは正直いってこのキャラクターにけっこう感情移入してしまうのだが、世の中の男たちは果たしてどうなんだろう。子供たち一人一人と真摯に向き合い、心を通い合わせることで、少しずつ父親として成長していった彼は、不倫相手ときっぱり別れ、家庭に戻る決意をするものの、それでも最後のふんぎりがつかず、「どうやったら子供たちに父親としての愛情を示せるのか分からない。」などと、うじうじと悩んでいる。不倫問題のもつれから失職したこともあり、自分に自信が持てないのである。あげくのはてに希衣の幼稚園でのお遊戯会を中止してくれとミタに依頼し、またしても大騒動となるのだが、それでも当の希衣をはじめとして四人の子供たち全員が赦してくれたことから、ついに胸襟をひらき、「俺をお前達の父親にしてくれ。頼む。」と涙ながらに土下座する。ミタが来てから人間としていちばん成熟したのは、たぶん子供たちの誰にもましてこの人であろう。


 「喪の作業」をなすべき人物がもうひとり残っている。亡き凪子の父親である義之(平泉成)だ。第8話ではこの人がフューチャーされる。もともと結婚に大反対していた彼にしてみれば、恵一は愛する娘を奪い去ったうえに自殺へと追いやった張本人であり、けっして許せないのは当然のことだ。驚異的な声帯模写能力をもつミタは、阿須田家の依頼を受けて凪子の「幽霊」を演じ、義之のもとを訪れて、自殺したことへの後悔を述べ、恵一を許し、子供たちの面倒をみてくれるよう頼む。心を打たれた義之は、「怖いんだ。俺と一緒に居る人間は、みんな不幸になるんじゃないかって、怖くてたまらないんだ。」と本心を吐露するが、うららの失態によって、すっかり芝居がばれてしまう。激怒してミタを殴りつける義之。しかしミタは、例によって無表情のまま、「あなたはあなたのやり方で、必死に家族を愛していた。大切な人を失う悲しみは分かります。でも、あなたにはまだ大切な人を幸せに出来るチャンスがあります。」と諭す。その真率な言葉の前に、義之の頑なな気持もついに和らぐ。


 ミタが凪子の声や喋り方を完璧に真似てしまうのは、例の四次元ポケット的カバンなどと同じくマンガ的な誇張ではあるが、この件りがばかばかしく見えないのは、これまでミタが、事あるごとに阿須田家の面々の前で凪子の記憶を呼び覚ましてきたからである。料理を賞賛されれば、「お母様の味を再現しているだけです」と言い、シャツにアイロンをかけてくれたことへの礼を恵一が述べると、「お礼なら、亡くなった奥様におっしゃるべきだと思います。わたくしはただ、奥様の真似をしているだけです」と答える。いわばミタは、それまでもずっと、折にふれて凪子の「霊」を召還してきたのだ。「喪の作業」とは、決してたんに死者を忘れ去ることではない。遺された生者たちの生活のなかに、しかるべき形で死者の「霊」を配置することなのである。「霊」という言い方が不穏当ならば、たんに「記憶」と言い換えてもいいけれど。


 そして、「大切な人を失う悲しみ」に言及するミタの言葉が、年端もいかない結ばかりか、義之のような老人の心までをも揺り動かすのは、無表情のまま淡々と意見を述べるミタの態度に、彼女が「大切な人を失う悲しみ」を身をもって知っていることを窺わせるだけの重みが備わっているからである。じっさい、後になって分かるが、ミタの嘗めてきた辛酸は、阿須田家のそれとは比べものにならないほどのものだった。彼女は、愛する家族を根こそぎ失っていたのである。第9話以降は、ミタのおかげで絆を取り戻した阿須田家の面々が、「恩返し」のようにミタの傷を癒そうとする顛末になっていくのだが、彼女の心理的外傷はあまりにも深すぎるゆえに、その試みはうまくはいかない。ミタの「喪の作業」は、たぶん一生かけても果たせぬほどのものであり、そのことは彼女自身がいちばんよく承知している。


 さて、主要な登場人物のなかで、ひとりだけ、「喪の作業」を必要としていないひとがいる。相武紗季演じる結城うららだ。このドラマが始まったばかりの頃、「じつは凪子はうららに殺されたのではないか?」という乱暴な推理をネット上で見たが、そんな突拍子もない想像を抱かせるくらい、彼女は姉の死を悼んでいない。その死がほんとうは事故ではなくて、恵一の不倫に発した自殺だったと判明しても、まったく動揺を示さないし、そのあとも変わらず恵一に好意を寄せ続けるのだ。これはおそらくドラマとしてのリアリティーの面では欠陥であると思うけれども、物語構造からすると納得がいく。すでに述べたとおり、うららはミタの裏の分身、ユング派の心理学でいうシャドウなのである。ミタはその凄惨な過去ゆえ精神をふかく病んでおり、半ば冥界に、つまり死者たちの側に身を置いている。だからこそ、阿須田家の子供らの生命をかけた「喪の作業」にぴったりと寄り添い、最高のサイコセラピストとして振る舞うことが可能であった。


 一方うららは、自分の中からその種の陰影をすべて追い出してしまっている。あまりにも「生」の側に身を置いており、陰を一切持たないのである。「うらら」とは、空が見事に晴れ渡っているさまを指すことばである。ほんとうは、彼女が姉の死を悲しんでいないはずはないのだが、「阿須田家を励まそう。」という気持が強すぎて、その感情を表に出すことができないのだ。彼女が不運にばかり見舞われる理由を、結は「阿須田家のババを、うららちゃんがぜんぶ引いてくれている。」と表現するが、それはおそらくこのあたりの機微を指しているかと思われる。だからこそミタは、最終回で彼女に、「怒ってください。泣きたい時には泣いてください。気を使って、無理に笑顔をつくることはやめてください。あの人たちの家族になりたいのなら。ほんとうに、あの家族を守る気なら」と、うららに向かって言うのである。真に他人の傷を癒すためには、いくばくかの陰りが不可欠となる。その陰りを身にまとったうえで、これまでどおり生者の側に身を置いて、阿須田家を守り、支えていってくれというのが、彼女に対するミタからのラスト・メッセージなのだった。


 三田灯じしんの「喪の作業」は、おそらく一生かけても果たせない。しかし絆を結ぶべき家族を持っている阿須田家は、ミタの助力で再生を成し遂げる。彼女のことを思いやる恵一や子供たちの真情にふれて、自らの壮絶な過去を打ち明けたミタは、自らもかつて命を絶とうとしたことを話し、そのときの経験から、「凪子は自分の意思で入水したには違いないにせよ、すぐに子供たちのことを思い出して後悔し、死にたくないと願ったはずだ。だから彼女の死は自殺ではなく、事故なのだ。」と語る。子供たちはその言葉を受け入れて、自分たちの手で母親の遺書を燃やす。阿須田家の「喪の作業」は、ここに完了したのであった。



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