いっこうに収束しないどころか次なる波の到来が危ぶまれるコロナ・同じく一向に出口の見えないウクライナ問題・エネルギー価格の高騰による諸物価の上昇・ここにきて顕在化してきたアベノミクスの悪影響(悪しき円安)・頻発する地震・とめどなく負け続ける阪神タイガース、など、これほど明るい話題に乏しい春先というのも記憶にないが、そんななか、町なかを歩いていて、乳飲み子を抱えている若い女性たちを目にすると、「ありがとうございます。」という心持ちになる。思えばぼくの両親にしても、2人とも、太平洋戦争(はっきりいえば日米戦争)のさなかに生まれた。いかに先行きの見えない時代にあっても、子供を産んで育てるという営為の繰り返しがあればこそわれわれは存続してきたわけで、そういう意味でしぜんに感謝の念を覚えるわけである(あの変物のニーチェでさえそんな趣旨の寸言を残している)。
もちろん、「子供を産んで育てる女性だけが偉い。」とか「そのようなライフスタイルこそが正しい。」といっているわけではないのでその点は誤解なきよう。そもそもぼく個人は両親の出生の結果としてぼく自身がこの世に誕生したことをそれほど感謝しているわけではなく、どちらかというと「ありがた迷惑」に近い気分をもっているのだ。でもそんなことばかり言ってると偏屈イメージが助長される一方だからこれくらいにしておきましょう。
ウィル・スミスがオスカーの壇上で司会のクリス・ロックの頬を平手打ちした件に関しては、「褒められたことではないが、家族を侮辱から守るためにとった已むに已まれぬ行動」とする日本の世論と、「言語同断。この上なく厳正な対処で臨むべし」とする米国の世論との差が著しい。これにつき、「L.A.在住 映画ジャーナリスト」の肩書をもつ猿渡由紀さんが、東洋経済オンラインに発表された以下の文章がたいへんわかりやすかった。
「ウィル・スミス平手打ち」擁護に見る日米の差
妻の外見へのジョークに対する暴力は愛の証か
https://toyokeizai.net/articles/-/578496
もちろん、「子供を産んで育てる女性だけが偉い。」とか「そのようなライフスタイルこそが正しい。」といっているわけではないのでその点は誤解なきよう。そもそもぼく個人は両親の出生の結果としてぼく自身がこの世に誕生したことをそれほど感謝しているわけではなく、どちらかというと「ありがた迷惑」に近い気分をもっているのだ。でもそんなことばかり言ってると偏屈イメージが助長される一方だからこれくらいにしておきましょう。
ウィル・スミスがオスカーの壇上で司会のクリス・ロックの頬を平手打ちした件に関しては、「褒められたことではないが、家族を侮辱から守るためにとった已むに已まれぬ行動」とする日本の世論と、「言語同断。この上なく厳正な対処で臨むべし」とする米国の世論との差が著しい。これにつき、「L.A.在住 映画ジャーナリスト」の肩書をもつ猿渡由紀さんが、東洋経済オンラインに発表された以下の文章がたいへんわかりやすかった。
「ウィル・スミス平手打ち」擁護に見る日米の差
妻の外見へのジョークに対する暴力は愛の証か
https://toyokeizai.net/articles/-/578496
これを読んでまず意外だったのは、アメリカにおいて「容姿いじり」(猿渡さんはそんな書き方をしていないが)が必ずしもタブーというわけではないらしいことだ。ポリティカル・コレクトネスにうるさいお国柄だから、とくに近年では御法度だろうと思い込んでいた(では米国のコメディアンは主に何で笑いを取っているのだろうと疑問に感じてはいたが)。
猿渡さんの文章によれば、アメリカ社会で御法度なのは「強者」(これは多数派といってもいいかと思う)が「弱者」(少数派といってもいい)を笑いのネタにすることであり、たとえば白人が黒人(最近は「アフリカ系アメリカ人」と記すことが多いが猿渡さんはあえてこう書いている)をジョークの元にしてはいけないし、ストレートがLGBTQを揶揄するのもいけない。しかし、「権力と富がある人、たとえば政治家やセレブリティーは、思いきりネタにしてもいい。いや、コメディアンからネタにされることを許容できないなら、政治家やセレブリティーになるなと言っていいくらいだ。」(記事『「ウィル・スミス平手打ち」擁護に見る日米の差』本文より)。
つまり「弱者」(コメディアン)が「強者」(セレブリティー)を笑うのは全然OKであり(というかむしろ奨励されており)、その限りにおいて、素材(ネタ)として「容姿」が引き合いに出されるのもけっして珍しくはない、という話なのである。
(ここで念のため書いておくと、ウィル・スミス、クリス・ロック、ジェイダ・ピンケット・スミスは全員「黒人」である。そして、スミス夫妻は押しも押されもせぬ「セレブ」であるがクリス・ロックは売れっ子とはいえそこまでではない。地位や立場ではスミス夫妻よりも相当落ちる。)
「弱者」が「強者」を笑うのはOK、というのはよくわかる。だいたい弱者(庶民の代表としての「道化」)が圧倒的強者(王や貴族、聖職者や大富豪など)を笑うというのがジョークってものの本質であり、だから自民党や維新の会にすり寄って(というよりほぼ癒着して)「野党」や「リベラル」を口汚く罵る一部の吉本芸人などはコメディアンの風上にも置けぬ……というよりコメディアンたることを放棄したただの無知で野蛮な政治ゴロでしかない。さすが自由と個性を重んじる国アメリカではそんなことはなく、コメディアンも観客も笑芸の本筋を弁えている、ということだろう(もちろん全員がそうってわけでもないんだろうけど)。
最前列に座っていたウィル・スミスが憤然と壇上にのぼってクリス・ロックを平手打ちしたのは、隣席に座っていた妻のジェイダ・ピンケット・スミス(女優)に向かって司会のロックが「次回作の『GIジェーン』、楽しみにしてるよ。」とジョークを飛ばしたからである。『GIジェーン』(1997年)は、若い女性が屈強な男性兵士に交じって何から何まで忖度なしの同一条件で過酷な軍隊生活に挑み、苦闘の果てに仲間の兵たちから認められる映画だ。主演を務めたデミ・ムーアの坊主頭が公開当時話題となった。
ジェイダ・ピンケット・スミスも坊主頭である。ぼくも今回の件でネット検索して写真を見たが、とても似合っており、チャーミングで美しい。ただし問題は、この人はファッションや趣味や何らかの信条に基づいてこのスタイルにしているのではなく、「脱毛に悩んで」仕方なくこの髪型にしている、というところなのである。
この事実がアメリカの社会で、あるいはアメリカの芸能界においてどれくらい周知されていたのか、そしてクリス・ロックはそのことを知っていたのかどうか、知ったうえでジョークとして口にしたのかどうか、ぼくなどの感覚ではそこがいちばんの主眼であり、それによって判断も大きく変わってくるのだが、猿渡さんはわりとあっさり「クリス・ロックは知らなかった。」と書いておられる。
クリス・ロック本人はまだ自分の口からその点を明言していないはずなので、猿渡さんが何をソースにそう言っておられるのかは不明なのだが、もし仮に本当に脱毛のことを知らなかったとする。そうなると今度は、「ウィル・スミスはロックが脱毛のことを知らないことを承知していたのか、知らないと承知したうえで平手打ちしたのかどうか?」が新たにまた問題になってくる。
先にも書いたが、ジェイダ・ピンケット・スミスの坊主頭そのものはとても似合っているのである。だから、クリス・ロックの「GIジェーン」云々は、もし脱毛のことを知らなかったとしたら、「そのヘアスタイルすごく素敵だね。主演級だよね。」という賛辞ともとれる。ウィル・スミスがその文脈を無視してあの挙に出たのであれば、とんだ早とちり野郎ってことにもなりかねぬわけだ。
ただ、猿渡さんはふれておられぬが、ぼくが他で見た記事では、以前にもクリス・ロックは公の場でスミス夫妻をジョークのネタにしたことがあるそうだ(むろん髪型のことではない。なおその席にはスミス夫妻はいなかったらしい)。つまり、それなりの因縁があるわけだ。だから夫妻ともども何らかの蟠りがあったことは想像できるし、そのうえでの今回の一件となると、「クリス・ロックは知らなかった。」だけで片付けていいかどうかはぼくにはすぐには判断できない。
しかし、猿渡さんがレポートするところのアメリカの世論に即していえば、じつはそのあたりはさほど重要ではないようである。やはり、「アカデミー賞授賞式」というアメリカ映画界にとって最高の舞台で暴力がふるわれた、という点が「断じて許せない。」という空気になっているようだ。「たかが軽いビンタではないか。」では済まない。やはり暴力であり、蛮行なのである。
「公衆の面前で妻が侮辱された。」と感じたウィル・スミスは、それではどうすればよかったのか。猿渡さんはこう書く。
腹が立ったとしても、スミスはそこでぐっと堪え、CM休憩中か授賞式の後、個人的にロックに文句を言うべきだった。あるいは、自分はもうすぐ主演男優賞受賞者として舞台に立つとわかっていたのだから、受賞スピーチの中で、あくまで軽い感じでロックのジョークに抗議し、妻の強さを称えてあげればよかった。
しかし、「CM休憩中か授賞式の後、個人的にロックに文句を言う」だけでは、ウィル・スミスが感じた「妻への侮辱」を雪ぐことはできないだろう。公衆の面前での侮辱なのだから、それを雪いで名誉を取り戻すのも公衆の面前でなければならない。だから、「受賞スピーチの中で……ロックのジョークに抗議し、妻の強さを称えてあげ」るという方がたぶん100点満点の対応だったと思う。
あまりに感情が激してそれすら待てなかったというならば、おもむろに立ち上がって、その場で「おいおいクリス、それ洒落になってないよ。俺もジェイダもぜんぜん笑えない。悪いけど撤回してくれよ。」くらい言っておけばよかったと思う。白けて気まずい空気にはなるであろうがそれでもいきなり壇上にのぼっての平手打ちよりは遥かにましだ。これだったら45点くらいだろうか。しかし、「いきなり壇上にのぼっての平手打ち」と、及びそのあとの「4文字ワードを使っての罵倒」は、併せてマイナス120点相当の愚行だったのである(平手打ちのあと席に戻ったスミスは、弁明らしきものを試みるロックに対して「お前のその**ッタレな口で俺の女房の名を呼ぶな!」と言った。イギリスのBBCはそのあいだ放映を中止したらしい)。
「これは、何重もの意味で、罪深い。」と書く猿渡さんは、スミスの振る舞いによって授賞式がジャックされた格好になり、その後のセレモニーや受賞した俳優・作品の栄誉が台無しになったことを指摘したあと、こう続ける。
「さらに、人種差別との闘いにも大きく水を差した。アメリカには今も、「黒人は怖い」という偏見を持つ人がいる。そのステレオタイプを崩すべく、多くの黒人が長い年月をかけて努力を積み重ねてきた。/そんなところへ、チャーミングなナイスガイとして知られてきたこの黒人のトップスターが、そこが格式高いアカデミー賞授賞式であることも、全世界に中継されていることも忘れ、たかだかジョークのために、他人を引っ叩いたのだ。/しかも、その後の受賞スピーチで、彼は「愛のためにやった」と自分の行為を正当化している。スミスをヒーローとして崇めてきた黒人の少年たちにそれがどんなメッセージを送るのかを、彼は考えられなかった。好きな女の子が誰かからバカにされたら、暴力で抗議するのが愛の証しなのか?(後略……)」
なるほど。ウィル・スミスほどの大物になると、「人種のサラダボウル」たる米国にあって、若者や子供をふくむ一般の観客のための規範としてのポジションが求められているわけか。こういう見方は勉強になった。
ともあれ、「たとえ如何なる理由であろうと、公の場で感情を剥き出しにして暴力をふるう。」こと、しかも「それを愛の名のもとに正当化すること」が非難の的になっているのだ。この厳しさは、いかにも「甘えを許さぬオトナの社会」という気がする。これに比べると日本の反応は情緒的かつ感傷的だ。つまりは甘ったるくて子供っぽい。
それにしても、こんな雲上人たちの世界でなくとも、軽い気持ちでいったひとことのせいで、傷つけられたり傷ついたり……という経験は誰にでもあるだろう。そこが言葉というもののムツカシサであり、人付き合いってもののムツカシサであり、ひいては人間というもののムツカシサだ。もちろん文学もまたそのムツカシサのなかに在る。