季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

またまたサッカーについて

2010年06月23日 | スポーツ
日本代表の対オランダ戦は善戦だった。一次リーグ突破は数値上の可能性は高いけれど、そう簡単ではないだろう。

結果はともかく。次の点を挙げておく。僕がサッカーに関して書く理由の最大なものだから。

ドイツは最有力候補でありながら第二戦で負けて苦戦を強いられた。クローゼという中心選手がイエローカードを2枚もらって退場処分になったのが痛かった。

Die Welt 紙上でクローゼへ長いインタビュー記事が載っていた。記者の質問は退場の対象となったファウルについてが主で、クローゼは通常のプレーに過ぎない、審判はあのプレーをファウルにするべきではなかったと弁明にこれ努めていた。

しかし、と記者は食い下がる。あなたはすでに一枚イエローカードをもらっているのだからもっと慎重になるべきではなかったか?と畳み掛けて質問する。

こういうやりとりが日本ではほとんど見られない。サッカー、スポーツに限ったことではない。たとえば政治の場においても同じだ。

対オランダ戦で決勝点は川島選手の正面で急に変化して手ではじき損なってゴールに吸い込まれた。日本のメディアは川島選手に対しては殆どコメントをしていない。しかしイギリスでは最低レベルのキーパーだと報じられ、一方オランダでは今大会の公式球が悪評なことと関連させて、非常に優秀なキーパーなのにボールの犠牲になったと報じた。どちらに耳を傾けるかは人それぞれだ。

これらは日本でも報じられたから目にした人は多いはずだ。しかしこの報道は他国のメディアによるもので、日本でそれを紹介したというに過ぎないことは気づいておくべきだろう。

他にもフランスはチーム内のごたごたが頂点にまで達し分解寸前で、イギリスもまた大きな問題を長いこと引きずっている。この国々にとっては今大会は終わっている。

にもかかわらず次の大会、そのまた次の大会にはしっかりと立て直して強豪国になっているだろう。チーム内のいざこざはないに越したことはない。それでも大局的に見ると、それが新たなエネルギーになっているとしか思えない。彼らはそれを伝統と呼ぶけれどね。

どうしてそんなことが可能なのか、と問えばやはり「批評」の存在だろう。選手間でも名指しで批判したりする。仲が良いとはとてもいえないようだ。それでもいざ試合になると立派な連携を見せる。

日本も結果が悪かった場合色々言う人が出る。しかしそれは外国の批評と違って、何かしら後に尾を引くようだ。だからふつうは当面の問題には目をつむっている方が無難だ、という感じ。そこが表面上の平和を求めているように僕には映る。

こうした態度は社会全体にも政治の場にも(特に国際政治)同心円状に表れていないか。同じ時代の同じ人間がすることだ、常識的にいってもそうだろう。