季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

感覚

2018年03月24日 | 音楽
例えば焼物である。

何でも鑑定団で中島誠之助氏の話を聞いていると、有名な窯もある時を境に急速に廃れることがあるようだ。

翻って演奏でもそうではないだろうか。たとえば感覚を担保して付加的能力をつけることは可能だろうか?

僕はパリのコンセルヴァトワールに発するソルフェージュのことを言っているのだ。

音符に対して「反射」を速くするために敢えて音程を付けずに唱える、などがその基本的考え方のひとつらしい。

その成果はあるに違いない。複雑化した現代曲を効率良く仕上げることが可能になったときく。僕はそれはあるに違いないと思う。

では失うものはないか?

そもそも演奏に何らかの効果があると信じられてソルフェージュは「発展」したのではないか。そしてその成果は担保される、と思うからこそ、本来の「音程感」「リズム感」を付ける補助的な教材だった視唱を隅に追いやって「反射的に」音名を唱える作業を付加的に取り入れているのだろう。

でもある時期に手に入れた「感覚」は失われることなく保たれるというのは楽観が過ぎるのではないか。

僕はそう考える。いや、考えるのではないな、正確に言うとそれが聴こえるから残念ながらそう結論する以外ないと思う。