季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

宇野功芳さんを巡って 2

2010年04月21日 | 音楽
前回はフルトヴェングラー協会での思い出に話がそれた。


宇野さんについて書きながらこの時の記憶が戻ってきてそれを書いておきたくなったのは、自分の耳で聴くということはじつに難しく、ほとんどの人が多かれ少なかれ新聞や雑誌で見かけた評の中の言葉に影響されていることを思わずにはいられないからである。

それはいけないと言ったところで無駄であろう。いや、私は自分で聴いて判断している、という返事が返ってくるばかりだから。人間の誇りとはかように強いものである。しかしこれは昔だって同じだったはずである。

ところで宇野さんの熱心な読者と覚しき人は例外なくシューリヒト、クナッパーツブッシュを崇め、朝比奈隆を語る。もっとも、大抵の人は自らを信奉者とは見做していないだろうが。うんうん、宇野功芳も俺と同じ意見だ、なんて思っているのかもしれない。

それはそれで良いのだが、彼らの「音楽理解」には段階があるようなのだ。

フルトヴェングラーでクラシック音楽の本質に入門し、理解が深まるに従いクナッパーツブッシュに傾倒し、シューリヒトを理解するに至って上級者と見なされる。

僕の勝手な思いこみではない。これらはネット上で拾い集めた音楽愛好者の書き込みで知ったことだ。音楽の本質なんて僕には何のことやら分からないが、ラーメンにもぺんぺん草にも本質があるならば致し方あるまい。

これらの奇妙な理解の段階はまさに宇野さんがあらゆる機会に強調していることを勝手に図式化したものだろう。

そうしたネット上の書き込みから聞こえてくるのは、フルトヴェングラー協会での忍び笑いと同じものだ。

文学評論家の江藤淳さんは晩年、閉塞的な文壇政治について、そこでなされているのは私語だと言った。言葉が仲間内でのみ通用する符丁と化したら文学ではない、と彼は強調した。孤軍奮闘といってもよかった。

これはあらゆる分野において言えることである。僕が聞いたのも正しく私語なのである。彼らは彼らだけに通用する暗黙の了解らしきものの許に集う。

もちろん正式な集まりではないから、各自は集団に属しているという自覚がない。それぞれ他の機会にはまた別の集団をつくる。

その有様は無自覚とはいえ、まさしく政治家たちの離散集合と等しい。

仮に今、演奏評論というものが禁止されてごらんなさい。おびただしい録音を前にしてほとんどの人が呆然と立ち尽くし、いったいどれが良いのかと「上級者」と思しき人に尋ねるだろう。

「上級者」はあれこれとアドヴァイスを与えながら「俺は演奏評で生活したいものだ」と考えるかもしれない。演奏評が禁止されているではないかって?なに、鑑賞アドヴァイザーとか名乗っておけば法に触れないさ。

というわけで、好こうが嫌おうが批評家は必ず現れるし、大切でもある。だから僕は彼らに音楽を知ってもらいたいし、きちんとした文章を書いてもらいたいと願うのである。

遠山一行さんは音楽評は文学の一ジャンルだといった。その通りである。その文脈で宇野さんの文章を眺めると「宇宙的」「人生の寂しさなんたらかんたら」といった、ご本人しか理解できない言葉が多く辟易する。

だがここでももう少し冷静に評価したい。人生の寂しさ、世の厳しさは正宗白鳥さんも口癖のように使った。

宇野さんの言葉が実感を伴わないのかといわれればそんなことはない。彼は正直にものを言っている。ただ、これは白鳥と宇野さんを読み比べてもらうしかないが、宇野さんの文章は居心地が悪いのである。

言いたいことだけが蒸気のように出てくる。むしろ自分はそれで構わないと言いそうな気配すらある。すると言いたいことが強い分、彼の文章はプロバガンダめいた性格を持つにいたる。僕が居心地悪い思いをするのはきっとそのせいだ。

読者がある種のパターンにはまり易いのも同じ理由からだと思う。音楽批評は文学の一ジャンルだという意見をもっと意識したほうがよいと思うのはそんな時だ。



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