季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

カンディンスキー

2009年10月21日 | 芸術
カンディンスキーの絵は好きだ。

この人は、よく知られるように、パウル・クレーとともにバウハウスで教鞭をとったりした。だからというわけではないけれど、クレーもたいへん好きな画家である。

この二人を比べて見ると、クレーがヨーロッパの(良い意味での)インテリなのに対し、カンディンスキーはいかにもロシアの人だと実感する。

この人の特徴として挙げるならまず色彩の美しさ。透明度が高いというほかない。そして、この透明な強烈さと無垢な感じは、ロシアの寺院などの形状や色彩を連想させる。

演奏の世界で、とくにオーケストラの演奏で、ロシア的厚塗りなんて聞くと、もういけない。ぞっとする。そういう言葉を使う人たちは、ロシアの異様な透明感についてすっかり忘れているのではないか。

なんだったらドストエフスキーの「罪と罰」で、ラスコオリニコフがネヴァ河の橋の上から晴れた空の下に色とりどりに輝く寺院の屋根をぼんやり眺めて、言いようのない孤独を感じる場面を考えても良い。

彼はたしか実在からぷっつりと切り離されたような疲労を覚えたはずだ。これが雲が重く垂れ込めた、いわゆる厚塗りの情景の下だったら彼の言いようのない孤独は僕たちに伝わらなかっただろう。

ロシア的厚塗りという印象は、レニングラードフィルに代表されるロシアのオーケストラを聴いて出てきた言葉だろう。

レニングラードフィルとムラヴィンスキーによるブルックナーをハンブルクで聴いた。僕はたちまち、これはロシアではない、ソ連だと悟った。

ブルックナーの交響曲は何しろ金管楽器が多用される。その出番が来るたびに朝顔が一斉に一定の角度にせり上がって、次に咆哮が来る。まるで高射砲や戦車の砲身のようだと辟易したのを思い出す。

そんな粗雑な音からはチャイコフスキーもストラヴィンスキーも出てくる余地はないと感じた。(思い出した序でに言っておけば、ギュンター・ヴァントが北西ドイツ放送管弦楽団を振ってストラヴィンスキーを演奏したのは感心した)

カンディンスキーは若いころにはロマンティックと言えるような作品を描いている。ウェブ上で見つけることができなかったのでそのうちスキャンして紹介できると良いのだが。

白い馬に一組の男女が乗って行く画である。女は横座りして少し俯いている。男はたずなを引きながら女を抱きかかえている。現代のフェミニズムの闘士が見たら猛り狂いそうな姿だ。背景には例のロシアの寺院が描かれている。ここでは何というか、ほとんど無防備といえるようなセンチメントさえ見られると言ってよい。

この画を見たときにカンディンスキーの色彩から受ける透明感の根源が理解できたように思った。

シャガールはあまり好きな画家ではないけれど、彼の画の青はずいぶん深いところまで僕たちを誘うでしょう。そう見ていくと、この人の根底にもロシア的な魂が流れている。カンディンスキーとはまるで違う人種だが、おなじ魂が流れているのを感じる。
コメント
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