さてようやくキーンさんの「日本人の質問」について書き始める。
僕たちがチロルで経験したことと似たものを挙げてみようか。
キーンさんは1950年代後半に来日したそうだ。専門は日本文学だが、その彼にして「漢字を読めますか」と訊ねられることが多いらしい。
キーンさんを知らない人が、彼が日本の新聞雑誌を読んでいるのを見かけたら、ちょうどメニューを注文しただけで「おい、ドイツ語を喋ったぞ」とひそひそ声がさざ波のように広がったように「おい、あの外人漢字を読めるみたいだぞ」と囁いただろう。
もっとも、キーンさんがこの本を書いたのはもうだいぶ昔になってしまったから、外国人が珍しくなくなった今日の日本ではこんな素朴な驚き方はしないのかもしれない。
しかしもうひとつ「俳句を理解できますか」という質問もよくあるらしい。こちらに限っては間違いなく今日でも根強くあるのではなかろうか。
キーンさんの文章を引用しよう。
(彼の研究室を訪問する日本人の多くは)「俳句を理解できますか}と、けげんな顔をして尋ねる。訪問客を安心させようと思う場合、私はあきらめた表情をつくりながら、「無理ですね。日本で生まれていなければ、俳句を理解できるはずはありません」と答える。そうすると、日本の客はいかにもうれしそうに、「そうでしょうね」と合づちを打つ。
しかし、私が意地悪く、「もちろん分かっています。俳句なんて、それほど理解しにくいものではありません」と答えたら、訪問客は喜ぶどころか、興ざめ顔をして、話題を変える。外人でも俳句を理解できる世の中になったとすれば、何のために日本で生まれたか分からない、と言わんばかりの表情である。もし私が皮肉な態度で「日本人は俳句を理解できますか」と言い返したら、訪問客は笑うか、それとも非常に嫌がるだろう。
中略
研究室の訪問客にもう一つの種類がいる。本棚に並んでいる数々の俳句関係の本を見て「恥ずかしい」と言う日本人は珍しくない。言うまでもなく、「恥ずかしい」という発言は 中略 自分が読んだこともない、または読みたくないような日本文学の本が外人に読まれているという意味からである。日本の文化は「恥の文化」とも言われてきたが、日本文学を三十数年前から勉強してきた私が、日本人の地質学者や電気工学者よりも日本文学をよく知っていることが、果たして日本人の恥になるだろうか。 以下略
どうですか、日本文化は日本人にしか理解できないと考える日本人の狭さを実感した人も多いと思われる。
しかし、自分の国の文化は異国の人には理解できないだろうと考えるのは何も日本人に限ったことではないのである。
ドイツ時代、僕と友人が揃って同じ演奏会で伴奏をしたことがあった。友人が伴奏したフルートの学生は、恐ろしいくらい下手くそだった。そもそも僕がフルートの学生だと知っているのは彼女が手にしている楽器をフルートであると認識したからであった。
このくらい気取った書き方をしないと釣り合いがとれないほどひどかったね。僕が口笛を吹いたっても少しましになっただろう。
僕はたしかシューベルトの「しぼめる花の主題による変奏曲」、友人はモーツァルトらしき曲を演奏した。
終焉後(と書きたいところだが終演ですね)出演した僕らが一堂に集まってワインの杯を傾けていたとき、この学生の母親が友人に近づいてきて鷹揚な笑顔を振りまいて語りかけた。「私の娘の伴奏をしてあなたもモーツァルトが何者かお分かりになったでしょう」
僕らは思わず顔を見合わせた。彼はもしかしたらモーツァルトが何者か理解したことと引き換えに、音楽が何ものであるか、理解を失ったかもしれない。
あるいは、今日友人からモーツァルトが何者であるかを学んだ人たちは、かのドイツ人学生に感謝するべきなのかもしれない。
僕が友人はモーツァルトらしき曲を演奏した、と書いた理由が分かってもらえたと思う。
日本に限らず、先入観を取り去るのは難しいようである。
僕たちがチロルで経験したことと似たものを挙げてみようか。
キーンさんは1950年代後半に来日したそうだ。専門は日本文学だが、その彼にして「漢字を読めますか」と訊ねられることが多いらしい。
キーンさんを知らない人が、彼が日本の新聞雑誌を読んでいるのを見かけたら、ちょうどメニューを注文しただけで「おい、ドイツ語を喋ったぞ」とひそひそ声がさざ波のように広がったように「おい、あの外人漢字を読めるみたいだぞ」と囁いただろう。
もっとも、キーンさんがこの本を書いたのはもうだいぶ昔になってしまったから、外国人が珍しくなくなった今日の日本ではこんな素朴な驚き方はしないのかもしれない。
しかしもうひとつ「俳句を理解できますか」という質問もよくあるらしい。こちらに限っては間違いなく今日でも根強くあるのではなかろうか。
キーンさんの文章を引用しよう。
(彼の研究室を訪問する日本人の多くは)「俳句を理解できますか}と、けげんな顔をして尋ねる。訪問客を安心させようと思う場合、私はあきらめた表情をつくりながら、「無理ですね。日本で生まれていなければ、俳句を理解できるはずはありません」と答える。そうすると、日本の客はいかにもうれしそうに、「そうでしょうね」と合づちを打つ。
しかし、私が意地悪く、「もちろん分かっています。俳句なんて、それほど理解しにくいものではありません」と答えたら、訪問客は喜ぶどころか、興ざめ顔をして、話題を変える。外人でも俳句を理解できる世の中になったとすれば、何のために日本で生まれたか分からない、と言わんばかりの表情である。もし私が皮肉な態度で「日本人は俳句を理解できますか」と言い返したら、訪問客は笑うか、それとも非常に嫌がるだろう。
中略
研究室の訪問客にもう一つの種類がいる。本棚に並んでいる数々の俳句関係の本を見て「恥ずかしい」と言う日本人は珍しくない。言うまでもなく、「恥ずかしい」という発言は 中略 自分が読んだこともない、または読みたくないような日本文学の本が外人に読まれているという意味からである。日本の文化は「恥の文化」とも言われてきたが、日本文学を三十数年前から勉強してきた私が、日本人の地質学者や電気工学者よりも日本文学をよく知っていることが、果たして日本人の恥になるだろうか。 以下略
どうですか、日本文化は日本人にしか理解できないと考える日本人の狭さを実感した人も多いと思われる。
しかし、自分の国の文化は異国の人には理解できないだろうと考えるのは何も日本人に限ったことではないのである。
ドイツ時代、僕と友人が揃って同じ演奏会で伴奏をしたことがあった。友人が伴奏したフルートの学生は、恐ろしいくらい下手くそだった。そもそも僕がフルートの学生だと知っているのは彼女が手にしている楽器をフルートであると認識したからであった。
このくらい気取った書き方をしないと釣り合いがとれないほどひどかったね。僕が口笛を吹いたっても少しましになっただろう。
僕はたしかシューベルトの「しぼめる花の主題による変奏曲」、友人はモーツァルトらしき曲を演奏した。
終焉後(と書きたいところだが終演ですね)出演した僕らが一堂に集まってワインの杯を傾けていたとき、この学生の母親が友人に近づいてきて鷹揚な笑顔を振りまいて語りかけた。「私の娘の伴奏をしてあなたもモーツァルトが何者かお分かりになったでしょう」
僕らは思わず顔を見合わせた。彼はもしかしたらモーツァルトが何者か理解したことと引き換えに、音楽が何ものであるか、理解を失ったかもしれない。
あるいは、今日友人からモーツァルトが何者であるかを学んだ人たちは、かのドイツ人学生に感謝するべきなのかもしれない。
僕が友人はモーツァルトらしき曲を演奏した、と書いた理由が分かってもらえたと思う。
日本に限らず、先入観を取り去るのは難しいようである。