季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

失望

2009年06月19日 | スポーツ
サッカーのワールドカップ予選がすべて終了した。日本チームのですがね。
幸いかろうじて予選を突破して本大会に駒を進めることができたが、出場を決定したあとの2試合で、またしても長い長い課題を引きずったままであることを露呈した。

対オーストラリア戦でのパフォーマンスにも、もちろん失望した。いつもながら、自分たちの持ち味を出そう、という観念に縛られて、自縄自縛を絵に描いたような試合だった。持ち味なんて楽音と一緒だ。必死にやってみて、そこから自ずと顕れるものだ。

しかし僕が何にもまして失望するのは、日本のメディアの姿勢なのである。これが変わらない限り、チームは強くならない。なにもサッカーに限ったことではないのである。

テレビ中継は、スタジオに芸能人を招き、応援団長だと持ち上げる。馬鹿騒ぎをして盛り上がりを演出する愚かしさ。

そこに加えて、批評精神のない記事や番組の乱立。まるで獲物に群がるハイエナのようだ。負ければ自分たちが仕掛けた「話題」はそっちのけで、いつの間にか悲観的論調ばかり目立つ。

岡ちゃんが岡田辞任(事実じゃないよ、念のため)という論調に変わるのは象徴的だ。

岡田監督は本大会の目標を4位以内と言った。良いだろう。目標は高く掲げるものさ。彼の中にビジョンはあるのだろうが、それは周囲から批判されることによって鍛えられる。

それなのに、ちょっと調子が良ければ、お祭り騒ぎは一段と盛り上がり、日本チームの実力を正確に伝えない。やれお母さんがどうした、誰それとの男の約束がこうした、という美談のオンパレードになる。

勝ったら喜ぶ。それは良い。しかしいつの間にか日本チームが世界レベルになったような持ち上げ方をするのは正しくない。正しくないというよりも、サッカー(あるいはスポーツ全般)の面白さを減少させる。

日本チームは弱い。非常にひ弱い。それにもかかわらず本大会に出られるからこそ嬉しいのである。そこに批判があるから弱さを克服する道も開けるのだ。断るまでも無いことだが、批判することは非難することではない。

例えば世界のメディアをはじめとする目が、日本をどう捉えているかを知れば、浮かれている場合ではないと承知するだろう。

あらゆるメディアは負けた試合の後は、必ず「前を見つめる」というフレーズを繰り返す。敗戦のショックの大きさをこれまた情緒的に伝えるのが報道だといわんばかりで、個々のプレーへの言及は無いに等しい。

せっかく選手へのインタビューをする機会に恵まれながら「今のお気持ちを」という質問しか出ない。こんなことでは選手の方からも「問題点が見えたのが収穫だ」「気持ちを引き締めて前を見ていきたい」と、もう負け試合の後、何十回も聞いた言葉の繰り返しが出るばかりなのも当然か。

中継のあり方からも、この国のメディアが正確に判断することを敢えて避けているのだと思わせる。

アナウンサーは解説者の意見を聞くだけの存在で、解説者はサッカー界の人間であるから、そう手厳しい意見を言うのは控えてしまう。

一度、ラモスさんがNHKの中継に解説者として出たことがある。その時、代表チームがふがいない試合をした。

ラモスさんは選手たちに勝とうという気概が少なすぎる、と憤懣やる方ない、といった調子で批判した。

これは皆様のNHKにはまずかったとみえて、それ以来彼はゲストとして呼ばれていないはずである。

ラモスさんが正しかったかどうか、ではない。正直で強い反論や批判を避けようとする空気があらゆる前進を妨げる。僕はそう思っている。

日本はフォワードが弱いというのは以上書いたことと関係があると僕は思っている。精神風土が適していないとしか言えない。チームの仲が良いということが良いチームの証というのでは、これから先もフォワードが出ることはあるまい。

悔しいから僕がもっとも評価するフォワードを紹介しておく。写真のツラを見てもらいたい。ゲルト・ミュラーといって、西ドイツ屈指のフォワードだった。ごらんのように、人付き合いも悪く、昔の森番のような男だった。日本のフォワードの選手たちは優しすぎる。