季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

裁判員制度

2009年06月09日 | その他
こんなに身近になってしまった制度だから誰もが関心はあるはずである。

この制度も、元はといえばアメリカ辺りから注文があったのではなかったか。まあ、それを詮索しても始まらないから、書きたいことだけを書いておこう。

この制度の理念がどうであれ、日本の現状にはそぐわない、いずれ様々な問題を抱え込むこととなろう、と言っておきたい。

ここだけの話だが、という言い草をとかく好む人たち、あるいは人が集まればいない人のうわさに明け暮れる人たちがこんなに大勢いる国で、裁判のことだけは決して口外してはいけない、ということを守るのは容易ではなかろう。

近所の奥さんたちが路上で立ち話をする。そのうちに声を潜める。ははん、何か近くに住んでいる人の話題になったな、とか誰でも見当がつく。別段興味はないが、それでも見当はつく。

ここまでは下世話な話にすぎないが。

もう何度も書いてきたことだが、日本の人たちは自分で判断をするのを好まぬ傾向がある。あるいは、それをしないように躾けられているといったほうがより正確かもしれない。

学校での振る舞いをはじめ、発言や意見も「公式見解」的なものが多い。そこに加えてジャーナリズムが未発達である。これも繰り返し書いたように思う。

目に入る情報がじつに不正確で情緒的なうえに、主にそれを基にした自主的な判断を迫られる。しかも重大な犯罪に対してである。

そこに耐えうる精神の土壌がこの国にあるとは僕は思えない。

現に、裁判員制度の周知のためといって、子供たちを裁判所に呼んで裁判官の法服を着せてみたり、その種のイベントが盛り込まれているのを見るにつけ、とてもできたものではないと感じる。

学校での模擬裁判も(こういう催しが好きだなあ)、いったい何のためだか分からない。子供に「よく分からないからとりあえず死刑にしてみた」なんて言わせて、それをまた電波に乗せる。ここでも単なるお祭り騒ぎにしているだけではないか。

僕自身も、現在の裁判に疑問を持つことは多々あるけれど、この制度によって裁判に参与したいと願ってはいない。

制度の説く理念も分かったような分からぬようなものだ。

歴史的に見ても、欧米諸国は自らの手を血で染めて現在の政治形態を「勝ち取って」きた。

日本はいうまでもなく、お上の事情で気がついたらこういう政治形態になっていた。その差は大きいのである。これは誰がどうすることもできなかった僕たちの「現実」のはずだ。

形のみ欧米を真似てもだめである。欧米諸国が採っている制度であるから、というのではあまりに説得力に欠けるだろう。しかも、欧米では無い死刑判決まで担うというのだから。

もっと年月が経てば変わることはあるだろう。しかし今日の精神的現実でこのような重い判断を持ちこたえることができるとは到底思えない。

こんな制度を持ち出す前にしなければならなかったことが山ほどあるだろう。

まず体裁だけを取り繕った建前論を極力なくすこと。殊に教育現場からなくすこと。

それは一時期はやったような「自由な」気風とはちがう。たとえば運動会が嫌いな生徒は美辞麗句だけを並べて作文もどきを書くのではなく、しっかりとした文体で自分が嫌いな理由を述べる能力をつけたい。それは理屈である必要はない、素直な気持ちの吐露であって構わない。その方が好ましいくらいだ。

教師はそれを認めつつ、より説得力のある、あるいはより穏健な表現力を身に付けさせようとする必要があろう。つまり度量が大きな態度が望まれる。

予想だけ書いておこう。近い将来、この制度に由来するノイローゼが大変な数に上るであろう。
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