季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

マージャン 2

2009年03月23日 | その他
初めにイメージありき。夜半寝による腹音書にはこうある。

最近の若い人はコミュニケーションが取れない。そもそもこれを疑ってみる人はいないのか。

いや、確かに上手くないように見える。だがここで、では年長者は?と反問してみたらよい。腹芸とかいう言葉が立派に成り立つ国だ。コミュニケーションがスムーズにいく国でそんな言葉が成り立つかい。

僕が子供のころ、それこそ文字通り外で真っ黒になって遊んだものだ。当時は車も少なく、事件も少なかった。

と書いたらたいていの人がそうだったなあ、とうなずく。僕がちょっと前に凶悪事件は僕たちが子供のころこそ今の7倍以上あったと書いたのにもかかわらずね。ここでもイメージだけが先行する。僕は日がな一日外で遊び呆けていたにもかかわらず、なんの事件にも巻き込まれずにすんだ、とややこしい言い方をするべきなのか。

僕も今の子供たちに違和感があることだってある。なんでも物分りよくしようとは思わない。

ただ、僕の世代もその上の世代から違和感を持たれていたであろうということを忘れたくない。

ゲーム機を手にして夢中になっている子供を見ると、つい外へ行きなさいと言いたくなる。

しかし、外へ出て何をさせるというのか。それを考えると黙り込むしかない。公園には野球やサッカーをしないように、と注意書きが掲げてあるし、学校の校庭すら、あれはだめ、これはだめの諸禁止事項だらけではないか。僕たちの主要な遊び場のひとつは道路だったが、今そんなことをしたらどうなる?

僕はただ黙って自分が置かれていた環境を思い出すばかりだ。ここでも注意しておきたい。僕がその環境を懐かしむのは、単に僕が歳を重ねた結果である。繰り返すけれど、僕が何も知らずに遊んでいたころが一番凶悪犯罪が多かったのである。

そもそも外で遊ぶ子供は外に行かない子供より健全だという前提は正しいか。ひとりで静かにしていることが好きな人は、子供でもよい、コミュニケートができない人だろうか。そもそもコミュニテートとはなにか。

こうやっていくらでも問題を考え付くはずだ。

でもその前にイメージが立ちはだかる。認識しようという精神は働かなくなる。

平たく言ってしまえば、世間で今の若い人を指して言われるすべては単なるノスタルジーだ。ノスタルジーを感じること自体はおおいに人間的なことだろう。ただ、それはノスタルジーであることをよく知っておくべきなのだ。

ゲームばかりしている子供は学業が振るわないというデータが挙がった、なんていう記事があったりすると、僕以上に暇なやつがごまんといるのだと実感する。当たり前ではないか。何でも度を過ぎていれば害がある。朝から晩までピアノしか弾いていなければ学業に差し障りがある。サッカーばかりしていてもそうだ。パチンコでもそうだ。

この場合、ピアノを、サッカーを、パチンコを原因だと糾弾するだろうか。

この中でパチンコは僕の趣味に合わないけれどね。だから僕はしない。それだけだろう。そこですってんてんになる人もいよう。そういう人が出ないようにパチンコを禁止するべきだ、という議論にはなるまい。

禁止したところで濡れ手に粟を夢見る人は後を絶たぬからね。僕だってそういう気持ちがあるからこそtotoなんぞを買うのさ。競馬競輪チンチロリンといくらでもある。株だってある。余談だがtotoで6億当たってもここには書かないよ。見知らぬ親友がどっさり来ると困るから。

パチンコは品がなくてお年玉年賀はがきや宝くじは品がよい。株にいたっては経済活動であるから立派な行為だという「イメージ」は持たぬほうがよい。株なんて立派なギャンブルさ。ギャンブルを軽蔑もしない。パスカルの有名な賭けの理論を持ち出して正当化しようとも思わないけれどね。

僕は株やパチンコは好きではない、ただそれだけだ。余計な理由付けをしないことだ。

テレビゲームもしかり。自分や自分の子供にはさせたくないという人はそうすればよい。ただそれだけだ。

自分の趣味に合わぬものと、世の中の問題を(仮にそれ自体は正当だとしても)軽々に結びつけるのは正しくない。反証は幸いネットの中にいくらでもある。あっというまに見つかる。


初めてできるようになったからひとつ。関心のある人はどうぞ。
http://kogoroy.tripod.com/hanzai.html