パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

願望

2012-12-21 17:36:57 | Weblog
 経済学者の竹森俊平は、福島原発事故を、アメリカのリーマンショックを誘発した低所得者向けの住宅ローン、サブプライムローンと似た構造をもっているという。

 サブプライムローンは、ずいぶん前から危ない、続くはずがないと言われながら続いていたのは、アメリカ政府による「暗黙の支持」があったからだという。

 アメリカは、政府による低所得者向け住宅政策がほとんどないという特異な国で(実は日本はそれに増して「ない国」なのだが、ひとまずそれは措くことにする)、それでフレディマックとかメイといった「政府系」の金融会社にそれを担わせたことを、市場は知っていたので、万が一の事態が起きても政府が面倒を見るだろうと思って、事業は「続いていた」というのだ。

 それが2007年についに破綻したわけだが、ただアメリカの住宅ローンはノンリコースローンなので、ローンを払えなくなった貧乏人は、文無しで追い出されるが、ローンの残額を支払う義務はない。

 金融会社は、半額か半額以下になった住宅を処分して差額の損失は金融会社が担う。

 これがノンリコースローンだが、日本はリコースローンなので、家を失ってなお、高額の借金を背負うことになる。

 全く驚いたシステムであるが、ノンリコースローンが導入される気配はない。

 アメリカに低所得者向け住宅政策が「ない」ということは、アメリカ映画には、たとえばイタリア映画の『鉄道員』の舞台になったような貧困者向けアパートをあまり見かけないことでも知れるが、しかし低所得者向け住宅がないわけではないだろう。

 というのは、誰だったか忘れたが、有名な理論物理学者が若い頃、アメリカに留学したときの話として、日本のように住む家の心配をしないですんだのが精神的に大変に助かったと書いてあった。

 アメリカには公的医療保険制度は存在しないが、その代わり、貧困者、高齢者向けの政府の医療費負担は膨大で、全予算の三分の一が医療費だったはず。

 ただし、「高額な医療」は受けられない。

 つまり、貧困者向の医療けでしかないが、臓器移植は貧困者向けの「メディケイド」で受けることができると、日本人の女性が新聞のコラムで書いていた。

 ただ、貧困者向けは、資格認定が大変らしいが、ともかく(州ではなく、国の)税金の医療費負担が国防予算とほぼ同額だったはず。

 残りの三分の一は、年金等の社会保険費用だったように思うが、ともかく、アメリカでは伝染病のワクチンは無料だ。

 多分、どこだって無料だと思うが、日本では、「世界に冠たる保険制度」がありながら、ワクチン接種は一万円から数万円かかる。

 ワクチン接種が有料なのは、日本の国家予算の医療費は、公的医療保険の赤字分の補填に使われていて、直接の医療費としてはほとんど使われていないからではないだろうか。

 実際、日本の予算に占める「医療費」の割合は、ほんの数%だ。

 その分、我々は頼母子講形式でやってますから、というわけだ

 それはともかく、要は、「問題の所在をどこに見いだすか」、だ。

 だとすれば、今回の原発事故の「問題」は、「発展途上国から先進国への進化に伴って行われるシステムの転換の失敗」にあるという問題指摘は、まさに原発に限らず、すべてについて言い得ることで、「国益を守ることができれば」とか、何を言っているのかと言いたい。

 今の日本は「大枠」で言えば、諸外国に比べてうまくいっているのだけれど、それが、かえって先進国型の社会への転換を妨げているのだ。

 住宅政策で言うと、リーマンショック後、EUでも韓国でも中国でも低所得者向けの住宅建設をはじめているが、日本だけがまったく動いていない。

 みんな持ち家で、貧困者のいない国、それが本当の先進国だと日本の為政者は思っているのだろうか。

 それこそ、発展途上国の願望だと思うのだが。

「社会党、かく戦えり」と、「国策民営の罠」2

2012-12-21 03:28:24 | Weblog
 前回の書き直しです。

 竹森俊平の「国策民営の罠」を読む。

 面白いことは面白いのだが、結局何を言いたいのだ、という感想が否定できない。

 前の「経済論戦が甦る」のときも感じたのだが、私はこの本で「構造改革」という美名の正体に気づき、旧社会党の江田三郎をはじめとする「構造改革派」とその後継者からなる現民主党の没落も当然と思ったのだが(仙石由人は、東大時代、まさに構造改革派全学連の指導者の一人だった)、竹森俊平自身は必ずしも「反構造改革」の論陣を張ったわけではない。

 どうもそこら辺が、はっきりしないのだ。

 それはさて、今回の総選挙では、社民党(旧右派社会党)が消滅一歩前というか、ついに実質消滅した選挙として記憶されるべき選挙かもしれない。

 「社会党かく戦えり」というか。

 昔「日本、かく戦えり」という記録映画があって、これではじめてサイパンとかガダルカナルの島々における悲惨な状況が,米軍のフィルムだけれど、日本国民の前に明らかになったのだった。

 内容的には,その悲惨さに驚いたが、一方、あんなのは当たり前だろうし、当時の兵隊さん、つまり親父の世代も思っているのだろうとも思っていた。

 しかし、当時の兵隊さんたちと同じ世代の人たちは、あんなにボロ負けしているとは知らされていなかったので、我々、つまり当時の子供たちが思うように、「当たり前」ですませることではなかったのだ。

 親父が、興味深そうな顔でテレビを見ていたことを覚えている。親父は、幸いにも戦争に駆り出されなかったので、私を同じ目線で「日本、かく戦えり」を見ていたのだ。

 大体、日本本土は爆撃は受けたが,直接戦場になったところは,沖縄以外にはないわけで、「日本、かく戦えり」を総括しようとしても、結局「お題目=イデオロギー」で終わりかねない。

 社会党,そして社民党は、このお題目で戦後ずっとやってきた政党で(対立的パートナーだった自民も似たようなものかもしれないが)、そのイデオロギーの根幹は,結局「構造改革」だったのかもしれない。

 ともかく「社会党、かく戦えり」を総括すれば、「構造改革」という言葉、概念が、イデオロギーになってしまったこと、イデオロギーであってはならないものをイデオロギーに、言い換えれば「自明なもの」としてしまったことが、原因だと思う。

 一方、共産党が消滅していないのは、最初からイデオロギーを名乗っているから、頑固に消滅しないだけで。

 それはさて、「経済論戦は甦る」は七、八年前の本で、ネットではけっこう話題になり、それで私も購入したのだが、竹森氏は、当時の小泉首相の「構造改革」を阻止すべく立ち上がったわけではなく、時々散見したマスコミでの発言も、悪く言えば「右顧左眄」の印象があった。

 「経済論戦」というのは、まさに、学者同士の神学論争ではなく、経済学者が政策をめぐって政治家に働きかける、その働きかけをめぐる駆け引きのことを言うのだけれど,竹森自身は、全然「論戦」を仕掛けなかったのだ。

 「国策民営の罠」も、同じ印象で、本来だったら、事件の一年後あたりに、NHKのEテレで放映した、1980年頃の原子力行政の当事者たちの膨大な会議録、インタビューテープを材料にとりあげれば,もう少し「深い」考察ができたのではないかと思った。(言い換えると、あのEテレは、ちょっとすごい内容を含んでいたのだと改めて気づかされたのだった。)

 「国策民営の罠」で「なるほど」と思ったところをあげれば、日本の電力会社が「国策」で原発を経営していたため、普通の民営企業だったら敏感に反応したはずのスリーマイル島、チェルノブイリの両原発の重大事故に、欧米の電力会社が原発の新設をためらったのに、日本の電力会社は、むしろ積極的に原発開発を進めてしまったという指摘だ。

 そういわれてみると、まさにその通り。

 「日本ではあんな事故は起こるはずがない」と言って、電力自由化で起きたアメリカの混乱(カリフォルニアの停電とか)を、日本が、電力自由化すべきでないことを示す、「反面教師」とすら言ったのだった。

 竹森は、今回の原発事故は、「新興国から先進国へと進化する際に必要なシステムの転換に失敗したこと」が主原因だという。

 新興国とは「人口構成が若く、所得水準は低いが、成長率は高い」国で、先進国とは「人口が高齢化し、所得水準は高いが、成長率は低くなる」国で、日本は既に先進国に進化したのに、社会システムが新興国のままなのだ。

 例えば新興国の場合、重大事故が起きても、そのリスクは経済成長で吸収されるが、それのない先進国の場合は「極めて高くつく」ので、高度な安全管理能力が求められる。

 しかし日本は、先進国になったのに、あたかも、後進国のように、動いている。

 その最初の事態が「バブルの崩壊」で、この危機に対応できなかった。

 バブルが発生したことが問題ではなく、それをどう終息させるかだったのに、それに失敗し、あまつさえ、バブルで反省すべきはバブルを起こしたことだと今も思っている。

 次いで、阪神大震災が起き、少し前に起きたアメリカの地震で橋が崩落したりして、日本の高速道路は大丈夫かという声に「まったく問題ない」と言っていたのに、見事、崩落した。

 次にリーマンショック、そして年金の膨大な記載漏れが発覚したのに、先進国なら常識的制度であ社会保障番号を導入すれば、避けられた失敗なのに、今もまだ手もつけられていない。

 同じ頃、東海村でバケツで臨界事故を起こして、二人が悲惨な死を遂げた。

 それでも安全管理を見直すことはなく、ついに福島原発が崩壊した。

 これは、日本は、安全管理がきわめて重要な先進国のシステムへの転換をはからねばならない時期に来ているのに、その転換に失敗してしまったの結果なのだと竹森氏は言う。

 原発の「国策民営」は、まさに先進国へのキャッチアップの最終段階として目論まれた政策で、内心、津波を乗り切ってくれさえすれば何も問題はなかったのに、と担当官僚(通産省)はほぞを噛んでいるだろうが、失敗は偶然ではなく、必然だとすると、全然そんなことは言えなくなる。

 ともかく、原発是か非かで水掛け論に終始してしまうより、事故の検証を徹底的に行うことが先だろう。