パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

見え過ぎちゃって困るの~

2011-12-24 12:21:01 | Weblog
 数ヶ月前、パソコンのディスプレイが壊れたのを機に、従来使っていた14インチブラウン管テレビをパソコン、テレビ共用の液晶ディスプレイに変えたのだったが、以前のブラウン管テレビの場合は、ハイビジョン対応ではなかった。

 新しいシャープの「マルチメディアなんとか」は、今はみんなそうなのだろうが、ハイビジョン対応である。

 しかし、特にびっくりすることはまったくなかった。

 というか、ハイビジョンになったということに気づかなかった。

 ところが三、四ヶ月を経た今日この頃、環境の変化に気づいた。

 普通は「環境の変化」は、変化した時、即時に気づき、その後「慣れ」ることで変化を受け入れるというプロセスを経るのだが、「ハイビジョン」については、そうではないようなのだ。

 昔、「見え過ぎちゃって困るの~」という日本アンテナのコマーシャルがあったけれど、ハイビジョン映像については、それに慣れることで、「見え過ぎちゃって困るの~」状態になってしまった、と言えるかもしれない。

 これも昔の話だが、ハイパーリアリズムという現代美術の流派があった。

 まるで写真かと見紛うような細密な描写を行うのだが、じゃあ、写真でいいじゃないかと思うと、さにあらず。

 どうしても「絵」でなければならないのだ。

 この辺のハイパーリアリズムの理論はどうなっているのか、よく知らないのだけれど、ハイビジョンは、世界をハイパーリアリズム的世界に変えてしまったような気がする。

 それは、「リアル」が「ファンタジー」に入れ替わったような奇妙な世界である。

 だとしたら、ハイパーリアリズムとは、実はファンタズムだったのだ!

 と、今にして思うのは、ハイビジョンのつくる世界が、のっぴきならぬものとして私に迫っているからなのだ。

 今、欧米では、コマーシャル等で映像の修整がはなはだしいため、「虚偽広告」として取り締まる方向にあるらしいのだが、それをNHKのビジスポとやらでとりあげ、「しわを隠し、出っ張ったおなかを凹ませて理想の外見に近づけたいと思うのは自然なことで、取り締まるのは行き過ぎではないか」とか言っていたが、まったく鈍いな~と思わざるを得ない。

 映像の修整が必要なのは、修整が必要な映像をハイビジョンがつくり出したからだ。

 鈍いと思うのは、それがまず一つ。

 しかも、そのハイビジョンは、NHKが先鞭を付けたのだった。まったく要らんことをと思う。大蔵のNHKの研究所で盛んに研究開発を行っていたときから、そんなに精彩な画像をつくって何をしようとしているのだろうと思っていたが、アホらしいことに、そんなビジョンは何にもなかったのだ。ただ細かなものをつくりたかっただけなのだ。

 もう一つは、ハイビジョンそのものが本質的にそうなのだが、ハイビジョンがつくる世界が、金正日の北朝鮮がそうであったような「ファンタジー」になってしまうことだ。

 というか、もう現実に「ファンタジー」になっているわけで、それに気づかないのは、鈍いな~と思わざるを得ないのだ。