パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

トゥエインの格言から

2011-12-23 14:33:35 | Weblog
 格言というか箴言というか、そういうのが結構好きなのだが、一番おもしろいのはなんといってもマーク・トゥエインだ。

 ・我々が皆同じ考え方をしたからといって、それが一番いいということにはならない。競馬だって、意見の違いがあるからこそ成り立つのだ。

・多数派は常に間違っている。自分が多数派にまわったと知ったら、それは必ず行いを改めるか、一息入れて反省する時だ。

 通学児童の列に突っ込んで6人を死なせた、癲癇持ちのタンクローリーの運転手が懲役7年の判決を受け、この量刑が低すぎると死んだ児童の父親がテレビカメラに向かって話していた。

 マスコミもこの「不満」に同情的な様子が見て取れたが、この「多数派」の感性はおかしい。

 まさに一息入れて反省すべきではないだろうか。

 たしか、この運転手は、毎日仕事に出かける前は癲癇薬を飲んでから出かけるのだが、事故の日は飲み忘れてしまい、自宅から車で出かけてすぐに発作を起こしてしまったのだったと記憶しているが、たぶん、薬を飲まなかったら必ず発作を起こすというわけでもないので、それで、飲み忘れても今日一日くらいは大丈夫と思ったのだろう。

 それがあまりにも重大すぎる結果を生んでしまった。

 でも、事故というものは、大概、こういう経過を経て起こるものだ。

 飲酒事故にしても、もちろん、重大自己が起こる確率は通常運転時に比べて格段に大きいだろうが、飲酒したら必ず事故が起こるわけではない。

 もちろん、だからといって飲酒運転の取り締まりが「行き過ぎ」などと言うつもりはないけれど、「癲癇」は「飲酒」とは別だろう。

 何を言いたいのかというと、要するに「7年」の懲役という数字は事件の性格から言って概ね妥当であって、遺族としては、もし不満があったとしても受け入れるべきだと思うのだ。

 癲癇持ちだったら他の仕事を選ぶべきだったとか、いろいろ言いたいことはあるかもしれないが、運転手の仕事をしている人は、やっぱりその仕事が自分にあっていると思っているのだと思う。

 実際、癲癇にしろなんにしろ、持病を隠して仕事をしている人は無数いるだろうし、また仕事をしなければ食っていけないわけだから、「犯人」には、同情されてしかるべき要素が多々あり、そして――ここが肝心なのだが――同情してあげることができるのは、皮肉なことに(いや、「必然的に」ということかもしれないが)事故被害者の「遺族」しかいないのだ。

 だとしたら、事故被害者の遺族としては、判決の結果を「受け入れる」ことが人間としての義務、すなわち倫理の実践ではないかと思うのだ。

 はっきり言って、20年の懲役刑という、当該事件の最高刑を望むとテレビカメラに向かって発言していた遺族(父親)の顔を見て、私は「多数者」をバックにした傲慢さを感じ、嫌な気持ちになったのだ。

 堀文子とかいう、つまらない絵(日本画)を描く画家が、つい今しがたNHKで戸井十月のインタビューに答えて、言っていた。

 「バブル時代につくづく日本人が下品に見えて、日本を脱出して日本の良さを発見、日本画に転向したのです」みたいなことを言っていたが、彼女は外交官の奥さんだったそうで、バブル期にはたしかにそんな人が多かったのだろう。

 でもそういう人はあくまでも少数。

 大多数は、下品だとか、強欲だとか、怨嗟の声をあげていた。

 はっきり言って、貧乏人はバブルの恩恵を受けていたのだが、それは「怨嗟」に覆い隠されて気づかず、ただ怨嗟だけを自覚する「多数世論」に乗っかってバブル退治をした結果が今日まで続いているのだ。

 そして、堀文子さんはお金持ちだったので国外脱出して「日本再発見」したのだが、大多数はそのまま日本に居残り、デフレ日本が自分たちの怨嗟の結果なのだということに気づかぬまま、神戸地震、オウム事件等の大事件を経てついに今回の大津波+原発破砕というカタストロフに至り、「日本再発見」に希望をつなごうとしているのだ。

 ちょっとごちゃごちゃしてしまったが、私の現状分析である。

 ちなみに、トゥエインの格言をもう一つ。

 ・アダムがリンゴを欲しがったのは、そのリンゴが食べたかったからではない。ただそれが禁じられていたから、というだけのことだ。

 なるほど。

 では私の格言。

 交通機関が止まったため生じた「帰宅困難者」が、なにがなんでも自宅に帰ろうとしたのは、自宅にどうしても帰りたかったからではない。ただ、交通機関が止まっていたから、というだけのことだ。