パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

少数意見――問題は、ここにある

2011-11-02 00:58:12 | Weblog
 見たいテレビ番組が皆無なので、しょうがないから国会中継、それも代表質問を見ると、自民党が去年の尖閣諸島沖おける中国漁船拿捕事件の顛末をとりあげ、民主党政権のお粗末な失敗であると攻撃していた。

 私は、事件発生当初から当ブログで言ってきたのだが、菅内閣の、逮捕、中国政府の抗議、クリントン国務長官との協議を経て、船長釈放という対応は実に見事だと思ったのだった。

 自民党政権の場合、領海侵犯漁船は、「退去」であって、「逮捕」したことはなかったのだが、それをあえて「逮捕」したことは、最終的に釈放することで、アメリカに配慮した上、中国政府に「貸し」を作ったとも考えられるからだ。

 もちろん、そこまで見切ることは考えられないから、たまたま逮捕してしまったことを「もっけの幸い」として、次善の策を上記のストーリーにあてはめたのは、「見事」と言っていいと思ったのだった。

 もちろん、中国政府が反発することは予測できることだったが、反発し過ぎて、非常な不評判を招き、とどのつまりは「日本の勝ち」で尖閣諸島問題は終わったのだった。

 それは「事実」なのであって、菅政権としては、自民党の抗議も、マスコミの批判も受け付けずに、「我々の判断は正しかった。それは歴史が証明する」で通せばよかったのだが、何故かそうせずに「言い訳」に終始した。

 もちろん、今さら、それを撤回し「我々は正しかった」なんて主張することはできないが、マスコミにおいて今でもまだ「尖閣諸島問題」は民主党政権のお粗末ぶりの象徴と考えられているのは許し難い。

 あの事件以後、中国政府、海軍の傍若無人が強化されたか?

 尖閣諸島近辺を中国海軍が我が物顔に走り回るようになったのか?

 もちろん、中国の「傍若無人」は相変わらずかもしれないが、それは大昔からそうなのだ。

 繰り返すが、「勝利者」は日本なのだが、そのことを自覚していないため、まるで「敗者」のように振る舞っているのだ。

 もちろん、今、勢いのあるのは中国で、日本ではないけれど、だからこそ、今、日本は中国に「貸し」をつくったような顔を中国に示すことが求められるのだ。

 イギリスだったら、絶対にそうするだろう。

 え?

 「なんで《貸し》なんだ」って?

 だって、そうじゃないか。

 あのチンケな漁船の船長を、(自国民世論の追求を恐れる)中国政府の顔を立てて、超法規的に「釈放」してあげたのだから。

 「主権の行使」には、様々なかたちがあって、一見「主権の放棄」と見えて、実は高度な「主権の行使」というかたちもあり得るのだ。

 なんで、こんなことにこだわるのかというと、こんなことを言っている人がいないからだ。

 でも、きっと全然いないわけではないと思う。

 たとえば、北朝鮮の「拉致事件」でも、拉致された人々は実質的に、北朝鮮の生活に馴染んでしまっているので、「日本に帰せ」と言い張ってもしょうがないと中島梓は自分のブログに書いて、猛抗議を受け、ブログの閉鎖を余儀なくされたのだったが、彼女の言っていることは至極まとも。

 「めぐみちゃんは、今も、毎日毎晩、日本に帰りたいと言って泣いているに違いないのです」と、めぐみさんのお母さんは言っているけれど、それが「非現実的」な発言であることは、お母さん本人も、たぶんわかっているはず。

 「不本意ながら、嫁がせてしまった」と考えるしかない問題なのだ。

 と、なんでまた、こんなことを蒸し返しているのかというと、私が今、私しか発言していないが、でもきっと他にも同様に考えている人がいるにちがいないと思っている、その「別の人」がやはりいた。

 それは他ならぬ、何度か繰り返し言及したことのある小説家、保坂和志だった。

 保坂は、彼のブログ、「寝言戯言」で、「老朽化したソ連邦がチェルノブイリ事故で崩壊したように、日本もまたしっかり崩壊すべきだ」と書いている。

 そして、その前提として「菅が冷却剤の投入を早くした結果、事故を防ぐことができたとしたら、原発の危険性についての議論は深まらなかったにちがいない」とし、「問題は、ここにある」と書いている。

 日本では原発事故は福島以前にも頻繁に起きているが、そのどれを通じても、「原発の危険性についての議論」は深まらなかった。

 だとしたら、日本はこの際、「しっかり崩壊」するしかない。

 崩壊しなかったら、またこのまま続くだけだ。

 津波の被害者2万5千人を上回る3万人が毎年自殺している社会が、またこのまま続くことは許されるべきでないと、保坂は言う。

 いや、まったくその通りだ。

 保坂は、「しっかり崩壊」した後、自殺者数がさらに増えるかどうかについては触れていないが、私が思うに、増えないと思う。

 今日も「人身事故」のため、京浜東北線は超満員だったが、彼、あるいは彼女は「このまま続く社会」の歯車のなかで圧死したのだ。

 人々は、それで圧死させかねない「お仕着せの希望」より、そんなものは投げ捨て――保坂は「身軽に生きる」という表現を使っているが――絶望の立場に立つほうが、ずっと健康的なのだ。

 きっと。