パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

大江健三郎=スメルジャコフ説

2007-11-28 21:06:29 | Weblog
 一週間ほど前、京浜東北線の網棚で(網じゃないが…これも、死語だなあ)拾った朝日新聞を広げたら、沖縄の集団自決に関する大江健三郎の著書、『沖縄ノート』をめぐる裁判について、証人として発言した内容についての弁解というか、コメントが載っていた。
 大江の論点は二つあって、一つは、『沖縄ノート』中の、「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。」という文章についてで、「かれ」として書かれている原告の赤松氏は、自分に対する、「罪の巨塊」と言う表現は、事実無根の想像によって書かれたもので、名誉毀損にあたるとして告発しているわけだが(詳しいことはよく知らないが)、大江健三郎は、これに対し、「罪の巨塊」とは、集団自決の結果生じた「巨きな数の死体」のことであって、赤松氏本人のことではない。日本語のわかる人なら当然そう解釈するはずだ、と「日本語の表現論」に話をずらして語っている。

 しかし、こりゃ、どう考えても無理でしょう。大江の文章は、要するに、「かれ(赤松氏)は、自分の前に転がっている《巨きな数の死体》を《正気》のままでは、到底見ることもできないであろう(が、それでも正気で生き延びたいと願う)」と言っているのだから、罪の巨塊=赤松と理解するしかないじゃないか。そんな風に思う私は日本語力が足りないのであろうかと思いながら、そのままでいたが、どうやら、私と同じ感想を持った人はかなり多いらしく、あちこちのブログ等で大江批判が燃え盛っていて、その要旨もほぼ上に書いたことのようなことにつきるようなので、未だ、俎上にあがっていない、第2の論点について、少しだけ。

 あ、でもその前に、一つだけ。

 大江健三郎は、赤松氏が、「正気ではいられないような巨きな罪を犯して、なおかつ、正気で生き延びようと願っているにちがいない」と言っているわけだが、これは、考えうる限り、もっとも執拗・狡猾な「罵倒」じゃないのか。「気が狂えば、あんたは楽になる。だから気が狂っては困る。正気でいてくれ」、というのだ。『カラマーゾフの兄弟』で、次男のイワンを狂気に至らしめる、カラマーゾフ家の下男、スメルジャコフそっくりだ。裁判官がどう判断するかはわからないけれど、「文学」的にはそう解釈できる。

 それはさておき、大江健三郎は、当該コラム(定義集)を次の文章で終わっている。

 曽野氏は「集団自決」が行われた際、赤松大尉のもとで中隊長だった富野少尉が自衛隊一佐として勤務する土地を訪ね、次の談話をとって氏(曽野綾子)の本の核心に据えています。
 「むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、なぜ、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をしてその死の清らかさを自らおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません。」
 ――このように言う者らこそ、人間をおとしめていると信じます。そういって私は証言を終えました。

 なるほど、ここで根本的に意見が分かれるのだ。

 「死の清らかさ」という富野一佐の表現は必ずしも適当とは思わないが、富野氏の気持ちはよくわかる。集団自決した人をはじめ、沖縄で散った、軍人、民間人を含む、すべての日本人にたいし、戦後の日本人は、「すみませんでした」ではなく、「ありがとう」と言うべきだと私は思う。「ありがとう」と言ったからといって、決して「人間をおとしめる」ことにはならないはずだ。そう私は思う。(そもそも「すみません」が、日常語としては、「ありがとう」の意味を強く持ってしまう日本語の特質から、混乱がはじまっているような気がしないでもないが、そうは思いませんか? 日本語の達人、大江健三郎さん。あなたの言い分では解決は決して訪れず、ただ「恨み」ばかりが残るのでは?)

大江健三郎=スメルジャコフ説

2007-11-28 21:06:25 | Weblog
 一週間ほど前、京浜東北線の網棚で(網じゃないが…これも、死語だなあ)拾った朝日新聞を広げたら、沖縄の集団自決に関する大江健三郎の著書、『沖縄ノート』をめぐる裁判について、証人として発言した内容についての弁解というか、コメントが載っていた。
 大江の論点は二つあって、一つは、『沖縄ノート』中の、「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。」という文章についてで、「かれ」として書かれている原告の赤松氏は、自分に対する、「罪の巨塊」と言う表現は、事実無根の想像によって書かれたもので、名誉毀損にあたるとして告発しているわけだが(詳しいことはよく知らないが)、大江健三郎は、これに対し、「罪の巨塊」とは、集団自決の結果生じた「巨きな数の死体」のことであって、赤松氏本人のことではない。日本語のわかる人なら当然そう解釈するはずだ、と「日本語の表現論」に話をずらして語っている。

 しかし、こりゃ、どう考えても無理でしょう。大江の文章は、要するに、「かれ(赤松氏)は、自分の前に転がっている《巨きな数の死体》を《正気》のままでは、到底見ることもできないであろう(が、それでも正気で生き延びたいと願う)」と言っているのだから、罪の巨塊=赤松と理解するしかないじゃないか。そんな風に思う私は日本語力が足りないのであろうかと思いながら、そのままでいたが、どうやら、私と同じ感想を持った人はかなり多いらしく、あちこちのブログ等で大江批判が燃え盛っていて、その要旨もほぼ上に書いたことのようなことにつきるようなので、未だ、俎上にあがっていない、第2の論点について、少しだけ。

 あ、でもその前に、一つだけ。

 大江健三郎は、赤松氏が、「正気ではいられないような巨きな罪を犯して、なおかつ、正気で生き延びようと願っているにちがいない」と言っているわけだが、これは、考えうる限り、もっとも執拗・狡猾な「罵倒」じゃないのか。「気が狂えば、あんたは楽になる。だから気が狂っては困る。正気でいてくれ」、というのだ。『カラマーゾフの兄弟』で、次男のイワンを狂気に至らしめる、カラマーゾフ家の下男、スメルジャコフそっくりだ。裁判官がどう判断するかはわからないけれど、「文学」的にはそう解釈できる。

 それはさておき、大江健三郎は、当該コラム(定義集)を次の文章で終わっている。

 曽野氏は「集団自決」が行われた際、赤松大尉のもとで中隊長だった富野少尉が自衛隊一佐として勤務する土地を訪ね、次の談話をとって氏(曽野綾子)の本の核心に据えています。
 「むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、なぜ、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をしてその死の清らかさを自らおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません。」
 ――このように言う者らこそ、人間をおとしめていると信じます。そういって私は証言を終えました。

 なるほど、ここで根本的に意見が分かれるのだ。

 「死の清らかさ」という富野一佐の表現は必ずしも適当とは思わないが、富野氏の気持ちはよくわかる。集団自決した人をはじめ、沖縄で散った、軍人、民間人を含む、すべての日本人にたいし、戦後の日本人は、「すみませんでした」ではなく、「ありがとう」と言うべきだと私は思う。「ありがとう」と言ったからといって、決して「人間をおとしめる」ことにはならないはずだ。そう私は思う。(そもそも「すみません」が、日常語としては、「ありがとう」の意味を強く持ってしまう日本語の特質から、混乱がはじまっているような気がしないでもないが、そうは思いませんか? 日本語の達人、大江健三郎さん。あなたの言い分では解決は決して訪れず、ただ「恨み」ばかりが残るのでは?)