パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

賢い主婦は…

2007-01-20 23:08:42 | Weblog
 “冷蔵庫に新しい牛乳と古い牛乳があったとする。あなたはどちらから飲む? 賢い主婦なら、古い牛乳から飲むだろう。古い牛乳を無駄にしないためだ。それと同じで、スーパーでも、手前に並んでいる古い牛乳から買うべきである。”

 そんな意見広告が昨年、全国新聞各紙に繰り返し載ったそうだ。それも1ページ大の大広告である。
 私は全然知らなかったが、広告主は財団法人日本新聞協会だそうだ。新聞屋がなんで、スーパーの牛乳の買い方に意見するのか、いまいちわからないが、ともかく、この広告と不二家問題をからめて呉智英が、これは、古い牛乳から買わないと、期限切れの牛乳は捨てられることになるのだぞ、という「恐るべき恫喝広告」であり、スーパーの主婦が、家庭内の行動とは逆に、“新しい牛乳”から買うのも、これまた「牛乳を無駄にしたくないから」であって、至極当然である、この広告主は、「もったいないから」と古い期限切れの牛乳を使った不二家の担当者をどう思うか、今まで被害者が出ていないのは、現行の消費期限が不必要に短いからだと、「賢い主婦」なら思うはずだぞ、と噛み付いていた。

 論旨はなんとなくわかるような気がするのだが、呉にしては珍しく(でもないかも知れないが)、細かいところがよくわからない。不二家の「古い牛乳」を使った担当者は、広告の趣旨からすれば、「賢い」ことになるのだぞ、と言いたいのか?
 あるいは、家庭内の行動と、家庭の外の行動では、行動基準が180度違う可能性がある、という論旨とも考えられる。私は、こっちのほうに興味がある。

 たとえば、風見しんごの娘の事故死だ。

 もう、3、4年前だが、ラジオ放送で、小学校の先生が次のように話していた。

 「手を挙げて、横断歩道を渡ろうよ」という交通標語があるが、手を挙げても、それを自動車の運転手が見逃している可能性があるので、今の小学校ではこの交通標語は教えていないというのである。じゃあ、どうするのかというと、大事なのはアイコンタクトである。運転手の「目」を見ろ。そうすると、運転手は必ず、子供の視線に気付くから、そうしたら、渡りなさいと今では教えていますと。

 正直いって、私はこの放送を聞いて感心した。たしかにそうだ。手を挙げている子供に気付かないことを責めてもしょうがない。そういうことはあり得るのだ。逆に言うと、手を挙げさえすれば、見つけてくれるなんてことを期待するのは、なんとも、傲慢な考え方であるとも言える。

 それで、この放送を聞いて以来、私は自転車に乗ることが多いのだが、ちょっとやばいと思うときは、「キッ」と、運転手の方を見ることにしている。そうすると、不思議なことに、ほとんど百パーセントの運転手が私の「視線」に気付く。(ただし、おばちゃん運転手を除く。おばちゃん運転手は、危ない。特に、狭い道から大通りに出ようとする時なんか、もう、やってくる自動車の確認に夢中で、自転車なんか全然見えていない場合が多い)気付いてくれたら、百パーセント安全である。

 風見しんごの娘の通っていた学校では、このことを教えていたのだろうか。どうも、手さえ挙げれば、あるいは、青信号であれば、渡っても良い、と単純に教えていたのではないだろうか。
 しかし、人間の行動は、信号ではっきり区分けできるほど、そんなに単純ではない。
 たとえば、スーパーの主婦は、手前に置いてある牛乳のほうが、奥にある牛乳よりも手に取りやすいから、奥に古いのが残ると推理するが、でも、みんなそろってそう考えるとしたら、逆に、奥にある方がかえって新しいにちがいないと…ん? なんか、わからなくなってしまった。

 ともかく、人間の行動は複雑なんです。