What Is Faith?: Basic Training with R.C. Sproul
訳出時間枠:2分43秒から7分24秒まで
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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。
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教会歴史家は、次のように述べています。
このグノーシス運動は、2世紀にクリスチャンコミュニティを侵食して、教会象徴なるものを創立するように教会に迫ったのです。
そのものを象徴するような意味での記号や標識としてのシンボルではなくて、教会信仰のエッセンスを具体化するような象徴(エンブレム)だったのであります。
当初、ローマ象徴というものがありました。
多くの場合、使徒信条に見られるような基本的外観を呈していました。
年が経つに連れて、他の細かな点がローマ象徴に加えられていき、紀元400年頃までには完成することはありませんでした。
ローマ象徴は、2世紀頃実際に使用されており、その内容は使徒の時代に端を発し、使徒たちのメッセージや主張の上に築き上げられ、後になってローマ象徴の改良形はまさに使徒信条と呼ばれるようになりました。
ローマ象徴は、現在私たちが知っているような様式において使徒によって書かれたものではなく、使徒たちの教えや教会の伝統に基づいていました。
現在私たちが使徒信条と称しているものが、字義的・内容的に、最終の定型文となるまでに数世紀を要したのであります。
しかし、そのエッセンスは、1世紀のクリスチャンコミュニティにおいて、すでに使いこなされていました。
さて、このオープニングセッションにおいて、「私は信じる」とは何を意味するのかということについて話そうと思います。
加えて、「信仰とは何か」ということ。
もちろん、信仰とは、キリスト教にとって命にかかわることであるために、キリスト教を宗教と呼んでは欲しくないという意見もあります。
では、一体クリスチャンの信仰を何と呼んだらよいのでしょうか。
信仰ということばは、時に動詞として使うことがあります。
すなわち、自分の信仰をあることに関連付ける時、つまりあることを信じる時に動詞として使います。
一方、キリスト教に関連して名詞として使う場合もあります。
しかし、信仰という概念は大変複雑であります。
信じる(believe)という類語もまた複雑な概念です。
ここで、ちょっと時間を使って、聖書的キリスト教において信仰が働く方法について話そうと思います。
信仰とは一体どういう意味でしょうか。
何が信仰ではないかを説明することによって、次のようにアプローチしようと思います。
そして、現在社会において、信仰の性質について存在する混乱を明瞭にしようと思います。
信仰は、理性のアンチテーゼ、あるいは理性と相対立する概念として見られることが多い。
そして、信仰は、私が感覚知覚と呼ぼうと思っていることとも対立する概念であります。
ここに、科学を置くことができるでしょう。
あるいは、経験主義を置くこともできるかもしれません。
信仰とは、私たちが物事を学ぶさまざまな方法と対立する概念なのです。
その方法というのは、私たちが知っていることを知るための方法です。
哲学の1つの分野に、認識論という分野があります。
認識論の関心事は、ある疑問「どのようにして私たちは知るのか」に答えることです。
子どもたちは一日に何度も、あなたや子ども同士で、「なんでわかったの」とか「なんでそう思うの」とか聞いてくるでしょう。
あなたが知っていることを、あなたはどのようにして知ったのか。
あなたが学んだことを、あなたはどのようにして学んだのか。
哲学者が長年答えを探し求めてきた疑問のひとつがこの疑問です。
その疑問に答えようとする学問が認識論であります。
多くの時代を通して、人々はあちらこちらと探し回り、また感覚知覚と理性の関係を混ぜ合わせて理解しようとしてきました。